daikosh's blog

1日1アウトプット

芸術の定義。~芸術と技術の違い(補足)~

 

前回で終わらせようと思っていたのだが、違ったアプローチを思いついたので記事にしておく。今までは、英語で芸術を意味する"art"という言葉の語源から考えていたが、結局はラテン語で技術を意味する"ars"に行き着いてしまい、差異についての思慮は得られなかった。

それでは、日本語で考えてみるとどうなるのだろうかと思ったわけである。

まずは、日本の辞書にはどのように載っているかを調べてみた。

 

げい‐じゅつ【芸術】
①[後漢書孝安帝紀]技芸と学術。
②(art)一定の材料・技術・身体などを駆使して、観賞的価値を創出する人間の活動およびその所産。絵画・彫刻・工芸・建築・詩・音楽・舞踊などの総称。特に絵画・彫刻など視覚にまつわるもののみを指す場合もある。

げい‐じゅつ【芸術】 - 広辞苑無料検索より)

 

ぎ‐じゅつ【技術】
①[史記貨殖伝]物事をたくみに行うわざ。技巧。技芸。「―を磨く」
②(technique)科学を実地に応用して自然の事物を改変・加工し、人間生活に役立てるわざ。「先端―」

ぎ‐じゅつ【技術】 - 広辞苑無料検索より)

 

このことから、やはり技術は利用するもので、芸術はその結果に近いと思われる。前回の記事での提案があながち間違いではないということが分かった。

ところで、日本語の熟語である「技術」と「芸術」という言葉を見ると「術」という言葉が共通している。ということで、2つの熟語を分解して漢字一文字ずつの意味を見ていこう。

 

じゅつ【術】
①わざ。技芸。学問。
②不思議なわざ。まじない。「―をかける」
③てだて。手段。すべ。
④はかりごと。たくらみ。「―を弄する」

じゅつ【術】 - 広辞苑無料検索より)

 

引き続き「技」と「芸」について調べてみたのだが、得られた結果を見て思わず笑ってしまった。

 

わざ【業・技】
①神意のこめられた行事。深い意味のある行為。万葉集9「この山を領く神の昔より禁めぬ―ぞ」
②すること。しわざ。おこない。行為。万葉集4「あしひきの山にしをれば風流なみわがする―をとがめたまふな」。「容易な―でない」
③つとめとしてすること。職としてすること。しごと。職業。源氏物語橋姫「持仏の御飾りばかりを―とせさせ給ひて」
④しかた。方法。技術。芸。至花道「闌くるといふ事を―よと心得て上手の心位とは知らざるか」。「―を磨く」「―をきそう」
⑤仏事。法事。源氏物語夕霧「御息所の四十九日の―など」
⑥子を産むこと。お産。宇津保物語蔵開上「―をしつるとも思されず苦しきこともなくて起きゐ給へり」
⑦こと。ありさま。次第。源氏物語桐壺「いとわりなき―かなと言ひあはせつつなげく」
⑧わざわい。たたり。狂言、察化「荒立つれば、却つて―をなすものぢや」
⑨武道・相撲などで、相手に仕掛ける一定の型の動作。「―をかける」
◇「技」は4・9に使い、それ以外は「業」を使うのが普通。

わざ【業・技】 - 広辞苑無料検索より)

 

げい【芸】
(「藝」の略字。本の虫除けに用いた香草の名「芸」とは別)
①修練によって得た技能。学問。わざ。徒然草「己が―の勝りたることを喜ぶ」
②技能をともなうあそびごと。あそびごとのわざ。また、機知や工夫。「―のない話」
安芸国の略。

げい【芸】 - 広辞苑無料検索より)

 

「技」の④の定義と「芸」の①の定義で循環してしまっている。なんなら、「術」の①の定義が「技」になってしまっている。従って、似た言葉を合わせて構成する種類の熟語であることは明白である。

以上、対して面白い結果は得られなかった。いずれにせよ、「技術→芸術」という図式はやはり妥当なように思える。

 

 

そういえば、例のごとくフランスの語学学校で芸術と工芸の違いについて議論したことを思い出したが、これは実用性が伴うか否かで区分できると思う。従って工芸は技術に近いことになるが、芸術的な要素を含んだということになるのであろう。ここでいう芸術的な要素とは、美しさみたいなものであるが、芸術の中にも決して美しくないものが存在するので、工芸が真の意味での芸術的かと聞かれると、そうだと一概には言えない。

 

以上、語学というものがいかに曖昧なものであるかを思い知らされたのであった。我々人間は、区別しているようで区別できていないのであり、そもそもこの世界は区別できない一つのものなのかもしれない。

節分。常識に対して疑問を抱く。

 

「鬼は外!福は内!」

 

今日は節分である。上の掛け声とともに豆まきを行う。私の家でも先程行った。豆まきで思い出すのが、昔「人志松本のゆるせない話」でバカリズムが節分の豆まきに関して言っていたことである。

 

豆まきをして鬼を家の外に追いやったところで、外にまだ鬼はいるため根本的な解決になっていない。

バカリズム

 

この着眼点はさすがバカリズムといったところである。確かに、鬼を外に追いやるだけではまた鬼たちはやってくるだろうし、何より家の外に出られなくなる。鬼は根絶する必要があるのだ。これは冗談にすぎないが、バカリズムのように古くからの慣習に関して疑問を抱くということは重要だ。

また「人志松本のゆるせない話」関連で私が好きなのが、サバンナの八木の主張である。その中でも、「干支」に対する不満が秀逸である。彼の主張はこうだ。

 

「ねー、うし、とら、うー、たつ、みー」までは特に問題ないのだが、「うま」からは、「うま、ひつじ、さる、とり、いぬ、いー」とガチで覚えていかないといけない。

(サバンナ 八木)

 

確かに、これは誰しも感じたことがあることだろうが、同時に誰も意識したことがないだろう。加えてこんな事も言っている。

 

辰の龍だけ、想像上の生き物であるので、現実に存在する生き物を入れてあげるべきだ。もしくは、想像上の生き物で揃えるべきであり、「かっぱ、つちのこ、ネッシーユニコーン(UFO?)、辰、地底人、鬼、イエティ、半魚人、人魚姫、火星人、サンタクロース」という十二支ではどうか。

(サバンナ 八木)

 

 

この番組では、八木がバカにされているが、彼の視点はあながち侮れないことであると思う。

 

上記2つの主張に共通している点は、常識を疑っているという点である。常識的なことを言っていても何も面白くない。彼らは常識を疑い、常識に対して不満をぶちまけているのだ。これらの発想は、単にお笑いになるというだけでなく、新たな発見やイノベーションを生む上でも重要であるはずだ。私も彼らのような着眼点を持ちたいものである。

 

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芸術の定義。~芸術と技術の違い~

 

以前に芸術の定義についての記事を書いたわけだが、その続きである。

 

 

これらの記事の結論として、人間が作ったものが芸術作品であり、作ることを芸術というのではないか、といったようなことを書いたわけだが、これに対して以下のようなコメントを頂いた。

 

これはなかなか難しい議論でね、僕もずっと考えているのですが。artの語源はラテン語のarsにあって、これはどちらかというと「技術」、自然に対置される人間の技術というニュアンスですね。人工知能(artificial intelligence)のアーティフィシャル、はそこから来てるから、技術と芸術の境目って実は難しいですね。そういう意味でいうとdaikosh先輩のアイデアは語源に当たってる感じはしますね。artは人の手が絡んでるかどうかなんだろうね。

芸術の定義。〜アートの本質〜 - daikosh's blog - satoshi-hongoさんのコメントより)

 

このコメントを初め読ませていただいたとき、(技術も人間が行うのだから)技術も芸術に含めていいのではないかと思ったわけだが、このコメントの本質はそこではない。技術と芸術の境目はなんであるのかという点である。そこを今回は考えていきたいと思う。

 

ちなみに、上の記事を書く際に少しリサーチをしていたので、以下の記事を読んでartの語源がラテン語のarsということは知っていたのだが、話の流れが複雑になりそうだったので割愛していたことをばらしておく。

www.kitashirakawa.jp

 

 

それでは技術と芸術の境目はについて考えていこう。まず、今ままでの議論を整理してみよう。

 

・art(アート)は「芸術」という意味

・artの語源はラテン語で「技術」という意味のars

・art-という接頭語は人工的なといった意味

・ars(技術)は人の手が絡んだもの

 

もっと簡単にまとめると、

 

①ars(技術) → art-(人工的な)

②ars(技術) → art(芸術) 

 

のようになるはずだ。つまり、「人工的なもの」も「芸術」も元は技術であったと考えられる。このことから、ラテン語が使われていた時分には、技術と芸術は同じ扱いで、境目が無かったのではないかという考えに至った。つまり、人間がすることやしたことをarsと読んでいたと推測する。従って、現代でいう技術と芸術の境目を語源から考察していくというのはナンセンスということになるのだろう。

 

しかし、現代では「技術」と「芸術」という言葉は、同じ意味として使用されていない。そこで、私なりに技術と芸術の違いを考えてみた。前提条件として、技術も芸術も人の手が絡んでいるarsであるという元での提案になる。

以下が私の考えた区分である。

 

「技術はある目的のために利用するものであり、芸術はそれ自体が目的となるもの。」

 

説明しよう。

技術というのは、何らかの目的があってそれを遂行するために利用する。例えば、車を操縦するという技術には、車を操縦するという目的があり、その目的を果たすために役立つ。これは芸術の世界にも適用でき、絵を描く技術や楽器を演奏するという技術は、それぞれ絵を描くという目的と楽器を演奏するという目的が存在して、それらを果たすために利用するものとなる。

対して、芸術は何らかの目的のために利用するものではなく、それ自体が目的となる。例えば、上述のように、楽器を演奏するという目的は芸術であると言えるだろう。そして、その芸術のために楽器を演奏する「技術」を利用するのだ。反対に言えば、芸術は何らかの目的のために利用できない。何かを表現するために利用しているではないかと思うかもしれないが、何かを表現すること自体が芸術なのである。つまり、芸術の目的があるとするのであれば、その目的は芸術なのである。

以上をまとめると、「技術→芸術」というようなニュアンスだ。もちろん、必ずしも技術は芸術のために利用されるというわけではない。技術を利用するための目的は何でも良い。例えば、車の運転技術や速読できるという技術などの目的(車を運転するという目的と速読するという目的)は一般的に芸術とは呼ばれていない。

しかし、これらも芸術になる可能性を秘めていると言えるのではないだろうか。洗練された車の運転は美しく芸術的であるというようなことはおかしな発言にはならないだろう。また速読も、そのページのめくり方や姿勢などで芸術的な要素を感じ取れるかもしれない。このように、芸術というのはやはり客観的なものではなく、主観的なものである。

少し話がずれてしまったが、芸術と技術は似て非なるものであり、技術はある目的のために利用されるものであり、芸術はそれ自体が目的となるものというのが私の考えである。

 

以上、一提案でした。

毛筆。音楽。

 

最近、毛筆にハマっている。というより毛筆を新しい趣味にしたと言った方が正しい。きっかけは、年始に書き初めをしたことである。 

 

上の記事では、毛筆に集中することで悟りの境地に近づくのではないかといったような話をしたわけだが、今回書きたいのは毛筆と音楽との共通点についてである。

これは、ある音楽を聴きながらその歌詞を口ずさんでいる時に気づいたのだ。その音楽は英語の歌詞で、"night"の"t"の発音が音の最後に入っていたのだが、この瞬間に毛筆のハネが想起されたのだ。そこで、毛筆と音楽には共通点があるのではないかという考えが生まれたのである。音の処理と筆跡の処理。上の歌詞で感じたのはハネであったが、その他にも例えば減衰していくような音を毛筆で表すと、力をすっと抜いて書くようなものであろう。筆おろしと音の出だしにも同じようなことが言える。管楽器で言うと、タンギングの仕方がまさに筆おろしの点の書き方であろう。また、音の保ち方は筆の運びに共通していると言える。

つまり、音を出す上で注意しなければいけない所と、字を書く上での注意点がかぶるということになる。おそらくこのように共通点は他の芸術やスポーツなどでも見つけることができるだろうが、とりあえず自分の脳内で音楽と毛筆がびびっと繋がったので、記しておいたまでである。

『壁』を読んで。

 

以前から言っているように、内定先企業の課題の1つに読書感想文があり、今日が提出締切日であった。本の条件は芥川賞または直木賞を受賞した作品。私は安部公房の『壁』を選んだわけだが、このあたりの話はすでに過去の記事に書いているので参照されたい。

 

 

 

 

それでは、さっそくだが感想文を載せておく。

 

 

無表情はやはり一つの表情で、〈中略〉微笑こそ〈中略〉完全な無表情であったのだ。微笑こそ、完全に非感情的なものを意味する。人は微笑を通してその向うにある表情を読むことは出来ない。〈中略〉微笑はどんな視線に対しても鉄の防壁になるのだ。

安部公房著『壁』より)

 

これは『壁』に登場する「狸」の言葉である。この作品は、自分の名前を忘れてしまった男が自身の名刺やネクタイ、帽子などの物質に現実世界での居場所を奪われそうになるという話や、狸に自分の影を獲られる話などを含んだ6編から成っている。その全てがシュルレアリスムというジャンルの作品で、現実を超越したような世界観、すなわち夢の中のような突拍子もない世界に読者を誘う。従って、まるで雲のような捉えることのできないものを掴もうとしているような感覚で終始読んでいた。
 さて、上述の一節は私に小泉八雲著『日本の面影』を想起させた。この作品は19世紀にイギリス人のラフカディオ・ハーン小泉八雲)が来日した際に書いた紀行文であり、日本人の生活を細やかに描写しながら、その文化や国民性についての分析が綴られている。その中に当時外国人から気持ち悪いと思われていた日本人の不可解な微笑みについて書かれている。日本人の微笑には感情を堪え、自己を抑制し、己に打ち勝ったものにこそ幸せは訪れるという日本人の道徳観が象徴されていると彼は言う。まさに今回取り上げた一節と重なるのではないか。微笑みは無表情より非感情的なものであり、日本人は自ずと鉄の防壁の張り方を習得していたのだ。
 このように、シュルレアリスムは夢のような世界観を利用することで、現実世界では捉えにくい物事の本質を直接的に表現できるのではないだろうか。紙に描かれた設計図よりも、立体的に見えたもの方が直感的に捉えやすいという感覚と同じで、現実という次元を超えることで全く異なる角度から世界が見られるのだ。シュルレアリスムの魅力はその独特な世界観だけでなく、現実世界の本質を捉えるためのスコープのような役割を果たしていることなのかもしれない。

 

 

以上が今回書いた感想文である。まず言いたいのが、

 

「800字程度って短すぎません!?」

 

今回の課題の文字数制限が800字程度だったのだ。原稿用紙2枚分。せめて4枚分は欲しかった。。。要約力も問われているのだろうが、一冊の感想文を800字に収めるのは非常に難しかった。従って満足の行く議論はできず、いささか強引な構成となってしまった。ということで後日「『壁』を読んで。」のフルバージョンの記事をまた改めて書きたいと思う。

ただの日記。

 

今日で研究室の同期が全員公聴会を終えたので、打ち上げに行っていた。2次会はいつも通りカラオケで、各年代のメドレーを入れて1フレーズずつ回して歌えなかったら酒を飲まなければならないという、非常に学生らしい遊びをしていた。こういったことができるのもあと数回だと思うと少し寂しい気持ちになる。長かった学生生活がもう終わりを迎えようとしている。残り2ヶ月ほど満喫するしかない。

しかし、明日は内定先企業の課題である読書感想文の提出締切日である。本はすでに読了しており、引用できそうな部分は抜き出せてはいる。しかし、文章自体はまだ全然書けていないので、とりあえず明日はそれに取り組むつもりだ。

最近修士論文関連の作業ばかりで、勉強ができていない。本も全然読めていない。ブログも一応毎日書けてはいるが、大したネタもなく浅いものばかりである。そろそろ頑張らねば。おやすみなさい。

公聴会を終えて。

 

本日、修士論文の内容を発表する公聴会を無事に終えた。昨日、私はトップバッターで、朝っぱらからそんなに人が来ないという予想をしていたが、いざ蓋を開けてみると主査・副査の3人に加え、5人の教授が来られた。

 

「パターン青、使徒です!」

 

最近エヴァの復習をしているためか、このセリフとともにヤシマ作戦の音楽が脳内を流れていた。発表自体は落ち着いてすることができ、時間も制限時間ぴったしの15分に収めることができた。問題はその後の質疑応答である。合計4人の教授(半分は自分の教授陣)から質問をされたのだが、他の研究室の教授陣2名からの質問がかなり鋭いものであった。

 

「ATフィールドが侵食されていきます!!!これ以上は危険です!」

 

そのうちの一人の質問はダメージを喰らいながらも苦し紛れに答えることができたが、もう一人の指摘には白旗を挙げることしかできなかった。決して意地悪な質問をされたというわけではないし、質問の仕方も非常に丁寧であった。指摘は至極真っ当であり、私自身も「確かにいいいぃぃぃ」と感じた。一年前、いや半年前にでもその指摘を受けたかったというのが本音である。どうしても、一人で研究を進めていると、思い込みや勘違いなどで分かった気になって、客観的に違う角度から自分の研究を見れなくなっているのである。指導教授がいるではないかと思われるかもしれない。しかし、その指導教授たちも同様の現象に陥っている可能性があるのである。現に、他の研究室の教授陣からの質問が革新をついていたのである。他の研究室ということは、それぞれ専門性が異なる。従って、研究を違う観点から見ることができ、視点の違った質問が飛んでくるのである。視点の切り替えは研究を進めていく上で非常に重要である。なので、一年に一回でも他の研究室の教授に発表するような機会があればいいのになあと思う。

 

いずれにせよ、公聴会は終わった。後は週明けに配布される質問表に答え、修士論文に反映させて提出するだけである。この質問表になにが書かれてあるか分からないが、おおよそ公聴会の質疑応答で答えれなかったことについてだろう。

 

「さーて、来週もサービスサービスぅ!」