daikosh's blog

1日1アウトプット

『正義の教室』を読んで。ー功利主義ー

 

それでは、まず「平等」から始めたいと思う。平等こそが正義であると考える立場のことを、功利主義と呼ぶ。「最大多数の最大幸福」という言葉は高校の倫理の授業などで聞いたことがあるだろうが、これはまさに功利主義の原理を表現している。つまり、できるだけ多く幸せが得られる行動こそが正義だというものだ。数学的に言うと、全人類の幸福値を積分したときに、最大値を取る行為こそが正義だということになる。一見、合理的な考え方で間違ったことは言っていないように思えるかもしれない。しかし、この正義にはたくさんの問題点がある。それらをみていくことにしよう。

 

まず1つ目は、どのようにして客観的に幸福値を計算するのかというものである。功利主義のを初めて体系化したベンサムはこの問いに答えるために「幸福とは快楽である」と定義した上で、人生をかけて幸福計算を研究したのだ。これを量的快楽主義という。しかし、そんな単純に幸福が計算できないことは火を見るより明らかである。さらに、彼の弟子のミルは快楽の量ではなく質の方が重要ではないかと批判している。これを質的快楽主義といい、そんな彼が残した言葉がある。

 

「満足な豚であるより不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。」(ミル)

 

実にわかりやすい言葉ではないだろうか。さらに、快楽を幸福とするなら、盗撮行為は被害者が気づかない限り、正義になってしまう。なぜなら、被害者の快楽量は減少せず、犯罪者の快楽量を増大させるからである。このように、(功利主義的に)被害者のいない犯罪行為が正当化されてしまうのだ。

2つ目の問題点は、強権的なパターナリズムになってしまうということである。パターナリズムとは父権主義と訳され、独善的に善いとされるものを押し付けるべきだという立場のことである。ここで、臓器くじという思考実験を取り上げてみよう。臓器くじとは、健全な人を一人ランダムに殺して、その人の臓器をそれぞれ臓器移植が必要な人々に分配するというものだ。最大多数の最大幸福の原理から、功利主義的には正義となるのだ。さらに、もし仮に技術が進歩して、全人類の幸福計算ができるシステムが開発された世界を想像してみてほしい。もはや人間に意思決定する権利はなく、全人類の行動がそのシステムによって計算された最適解に決定されてしまう世界だ。そう、究極の管理社会になってしまうのだ。この本では、それは「人間にとって正しい社会」ではなく「社会にとって正しい人間」となってしまうと言っている。これは、果たして正義と言えるのだろうか。

 

このようにして、一見良さそうな平等こそが正義であると考える立場の功利主義にも問題はたくさんあるのだ。私は、高校の倫理の授業で功利主義を習ったときに、「最大多数の最大幸福」という原理が一番自分の中で腑に落ちたため、自分も功利主義なのだと決めつけていた。それはこれらの問題点や批判を知らなかったからである。しかし、改めて功利主義について勉強すると、自分がいかに浅はかであったかを思い知らされる。と同時に、一つの考え方には必ず欠点があり、その欠点を精査することが重要であることを学んだ。