daikosh's blog

1日1アウトプット

日本人の宗教観。

 

日本人はなぜ無宗教だと言われているのか。神道と仏教はなぜ神仏習合という形をとれたのか。日本の宗教に関するこのような類の疑問は以前から感じていたが、先日読んだ『日本の宗教 本当は何がすごいのか』によって少し理解できた気がする。今回は、この本で学んだことをまとめたいと思う。 

日本の宗教 本当は何がすごいのか

日本の宗教 本当は何がすごいのか

 

 

まず注目すべきなのが、それぞれの宗教がこの世の成立をどのように考えているかという点である。

まず、一神教を代表するユダヤ教キリスト教イスラム教を見てみよう。これらそれぞれ別の宗教であるが、信じている神は同じであり共通した経典が存在する。それは(キリスト教的に言えば)『旧約聖書』である。旧約聖書の第一巻にあたる創世記は「はじめに神は天と地とを創造された。」と始まる。つまり、神は初めから存在しているのである。そしてその神がこの世界を創り、その後人間を創ったというストーリーになっている。

では、日本ではどうだろうか。日本最古の歴史書であり、建国神話でも『古事記』では、初めに天地(あまつち)があり、そこから神が芽吹くように出現するのである。つまり、この世界が神を生んだという流れになっている。そして、その神は次々に神々を生み、最終的には人間を生むのである。つまり、神と人間が連続的につながっているのである。これは神道の考え方であり、日本の宗教観の根幹を担っているといっても過言ではないだろう。

一神教では神が自然をつくったのです。日本では自然が神を生じせしめたのです。(『日本の宗教 本当は何がすごいのか』より)

この点が非常に重要である。現在の科学が解き明かした世界は明らかに日本の宗教観、つまり神道の考え方に近い。反対に、一神教には矛盾が多く存在することになる。前回ニーチェが「神は死んだ」という言葉で超越的な存在を否定したと話したが、20世紀に入ってからは、科学的にも神は否定されている。ここでいう神とは、いわゆる全知全能の神のことで、完全な神のことである。完璧なシステムを作ったとしても、その中には必ず矛盾が包摂されるということが証明されたのだ。この定理は、数学的には不完全性定理と呼ばれ、物理的には不確実性定理と呼ばれている。いずれにせよ、現代の社会において神道の考え方のほうが理にかなっているということになる。さらに、一神教の宗教には必ず神の言葉や預言者の言葉などがあるのに対し、神道には一切ない。つまり、宗教というよりかは信仰に近いのである。これが、一神教、特に世界宗教の一つであるキリスト教の信者からすると日本人が無宗教であると感じる一つの要因であると考えられる。しかし、日本人が動じることは何もない。神道が我々の宗教であることに間違いはないのだから。

ではなぜ人類はこれほどにも異なった宗教を作ったのだろうか。それは、生きている環境の違いが最大の理由であったに違いない。巨大な大陸では、必ず生存するのに適している地とそうでない地が存在するため、それぞれの民族が存続のために領土争いを行っていた。詳細は割愛するが、特にユダヤ人たちは悲劇的な境遇の中生きてきた。そのため、自分たちは選ばれた民であり、いつか神が私達を救ってくれるに違いないという虚構を抱くことで、精神を保ったのだと予想される。それをベースに、ユダヤ教の共同性を否定しつつ、幅広く救いの手を差し伸べるキリスト教が誕生し、続いてイスラム教が成立するのである。それに対して、日本はとても恵まれた国だったのである。島国で敵から責められてくることもない上に、自然豊かで食料にも困らなかったのである。日本人が偉かったとかユダヤ人が間違っているとか、そういう話ではなく、環境が人間の思考をコントロールしていることがよく分かる一つの事例だと思う。

 

では次に、なぜ神仏習合という形で神道と仏教は上手く調和することができたのか。もちろん、仏教を日本に伝道した人や、当時の日本の権力者が上手くやったというような説明はできるだろうが、本質は他にあるはずだ。まず、一神教多神教以外に宗教の分類の仕方を紹介する必要がある。個人宗教と共同宗教である。個人宗教とは、個々人が信じる宗教であり、共同宗教は共同体がベースとなり、ある特定のグループが信じる宗教のことである。例として、まずは一神教を観てみよう。ユダヤ教は明らかに共同宗教である。ユダヤ人が自分たちの民族と唯一神との契約をしている宗教だからである。それに対し、キリスト教は個人宗教である。キリスト教は共同宗教を個人宗教に変換することで、世界に広がった。なぜなら、どんな人種であろうと、どんな地に住んでいようと関係なく、個人宗教では神と個人との契約で足りるからである。それでは、日本にある神道と仏教を観てみよう。神道は共同宗教である。日本人という共同体に起こった信仰である。それに対して仏教は個人宗教である。悟りを開くのに、日本人という共同体は必要ない。

共同宗教としての神道。個人宗教としての仏教。この2つを同時に受け入れたことが、日本における宗教を考える上で欠かせない部分です。そしてそれが日本人の精神性を豊かにしてくれました。(『日本の宗教 本当は何がすごいのか』より)

従って、神道も仏教も多神教であるという寛容さを持ち合わせながら、個人宗教と共同宗教という形で、うまく住み分けることができたのである。これは偶然というべきなのかどうなのかはわからないが、またしても日本は恵まれている国だということが分かる。

 

いかがだっただろうか。日本の宗教がいかに特殊で、そしていかに恵まれた環境で育まれてきたのかがお分かりいただけたと思う。世界の紛争のほとんどは宗教の問題が関係している。宗教の話に疎い日本人は、彼らの宗教をあからさまに批判するのではなく、そのような宗教が誕生した歴史を学んだ上で議論に参加すべきだと思う。そして、日本が恵まれた国であったために神道という平和な宗教、信仰を誕生させたという事実を改めて理解しておくべきであると感じた。この記事が日本人の宗教観を考える上で少しでも参考なれば幸いである。