daikosh's blog

1日1アウトプット

仏教の悟りとは。ー空の哲学ー

 

今回は大乗仏教の中心人物である龍樹(ナーガールジュナ)の教えについて話したいと思う。彼は釈迦の教えを『般若経』と『中論』にまとめた。『般若経』はあの有名なお経『般若心経』の元となったものである。では、彼は一体何を説いたのか。「空の哲学」である。釈迦の悟りは「空」であると言ったのである。それでは「空」とは何か。龍樹の教えがわずか262文字に凝縮された『般若心経』をみてみよう。

おそらく一番有名な箇所は「色即是空、空即是色」だろう。日本語に訳すと「色は空であり、空は色である。」となり、中国語の倒置法を用いることで色と空が同じであることを強調しているそうだ。「色」とは「有(物質)」のことで、「空」とは実在しないもののことだ。(「空」の概念については、後日詳しく説明したいと思う。)つまり、この世の中の物質はあるように見えているけど、実は幻だよということを言っているのである。ここで、いつものように例えを用いて説明したいと思う。自転車を思い浮かべてほしい。ここであなたに質問する。

「サドルが自転車なのですか?」「自転車のペダルが自転車なのですか?」「サドルを構成している鉄原子のかたまりが自転車なのですか?」

自転車は自転車だ!と言いたくなりそうだが、これらの質問の趣旨はご理解いただけるだろうか。つまり、自転車というものは物理空間に実存しているのではなく、自転車という概念が存在しているにすぎないと言っているのである。言い方を変えると、人間が勝手に区切って名前をつけているだけで、本当の世界は幻であるということだ。これが「空の哲学」である。

しかし、実はこれは『般若心経』の言わば序文であり、お経を理解する上での事前知識である。実はその後、龍樹は全てを無として否定し始める。「空」も無ければ、「無明(悟っていない状態)」も無い。「四諦」も無ければ、「八正道」も無い。彼は全てを否定したのである。なぜこんなことをする必要があったのか。それは釈迦が「我(アートマン)」を否定したときと同様の理屈である。つまり何かを理屈で理解している時点で、悟ることは不可能なのである。そして『般若心経』の最後の一節にはマントラ(呪文)が登場する。なぜ急に呪文が登場したのだろうか。よくよく考えてもらいたいのだが、梵我一如とは私(我)と世界(梵)の区別がなくなることである。つまり、死の体験ということになるのだ。多少強引かもしれないが、そのためには呪文を唱えながら勢いをつけるしか無いと考えたのである。

羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶

(ぎゃていぎゃていはらぎゃていはらそうぎゃていぼわじそわか)

(『般若心経』より)

この呪文には意味がない。そもそも呪文には意味がなくてよいのだ。しかし、最近になってこれは紀元前4世紀頃に使用されていたシュメール語(メソポタミア文明)が起源であることが分かってきたそうだ。

"I shall be, I shall be, let not be, let me must not be, so therefore, I shall be."

「とありたい、とありたい、とありたくないとありたい、からこそとありたくない、それでとあるのだ」(『お釈迦様の脳科学』)

という意味になるそうだ。おそらく、紀元前2世紀頃のサンスクリット語でも中国語でも理解はしておらず、マントラ(呪文)として使用されていたのだろう。

 

さて『般若心経』をここまで説明してきたが、なんと『般若心経』は作者不明であり、偽経とも言われているのだ。というのも、6世紀に漢語で書かれたものが中国で見つかっているのに対し、サンスクリット語で書かれたものは8世紀頃のものしか見つかっていない。しかもそれは日本の法隆寺に存在する。これらの事実から、『般若心経』は中国で漢語としてまず誕生し、後に日本に仏教が伝来した際に箔をつけるためにサンスクリット語に訳したという説が濃厚なようだ。さらに、『般若心経』は2つの致命的なミスを犯している。これらを説明して今日の記事は終わりたいと思う。

まず1つ目は日本で用いられている『般若心経』が漢語で書かれているという点である。そもそもお経とは口語でないといけないと釈迦は言っている。理由は至ってシンプルで、意味がわからないと駄目だからである。釈迦は死ぬ間際、弟子にサンスクリット語(当時の古語)ではなく、日常語であったパーリー語で記録を残させたそうだ。それがいつの間にか、箔をつけるためなのか、それともバラモン教のように読める者を限定して読めない者を支配するといったような思惑でかは分からないが、様々なお経がサンスクリット語に書き換えられたのである。従って、現在日本で用いられている漢字の羅列である『般若心経』は、中国人にとってはもしかするとお経と言えるかもしれないが、少なくとも日本人にとってはお経ではないのである。ちなみに、同様の理由で釈迦はマントラ(呪文)も禁じていた。

2つ目は状況の構成がおかしいという点である。『般若心経』は観自在菩薩が舎利子に悟りについて説明しているというものになっている。観自在菩薩とは、悟りを開こうとしている修行僧のことであるのに対して、舎利子とは釈迦の弟子の一人であり、既に悟っている人物(阿羅漢)なのである。もうお分かりだろう。なんと悟っていない人が悟っている人に対して悟りについて説明しているという失礼極まりない構図になっているのだ。学生が大学教授に向かって授業をしているようなものだ。

しかしこれらのようなミスが有るのにも関わらず、大乗仏教は中国へ、そして日本へと東に広まっていった。従って、釈迦の教えは守られていない形だが世界宗教の一つとして生き残ったという点では成功したと言えるのかもしれない。 また誤解しないでほしいのが、『般若心経』を心からありがたいお経だと思って暗唱し、唱えている人には「これは間違いだらけのお経だよ」といったようなことは言わないでもらいたい。なぜなら、信じていることで病気が治ったり、元気になったりということは実際に起こるからだ。神がいるから信じるのではなく、信じるから神がいるのである。

 

(明日に続く)