daikosh's blog

1日1アウトプット

仏教の悟りとは。ー釈迦と科学2ー

 

前回の記事では「空」について説明した。「縁起」の話をする前にもう少しだけ補足しておきたいと思う。

「空」とは最も抽象度が高いものであると同時に、最も情報量が少ないものであるという話であった。前回話した超ひも理論と「空」の世界観の理解を深めるために、テレビや映画などのスクリーンを例に取り上げて説明したいと思う。おそらく今あなたはスマホもしくはパソコンなどの画面を通してこの記事を読んでいるはずだ。液晶やプラズマなどの原理は置いておいて、その画面は規則的に配列された素子がそれぞれの指令に従った光を放出しており、それらを集合体として捉えて情報を得ている。しかし、一つの素子だけに注目すると、その素子は単にピカピカと光っているだけである。我々はそのピカピカを観ることで、感動したり笑ったり泣いたりしているのだ。実はこの世の中もそれと同様に考えられる。つまり、超ひも理論の「振動」でも「空」でもどちらでもいいのだが、この宇宙は「振動」もしくは「空」が存在したりしなかったりしてできているのである。従って、我々は人生の中で楽しいことや辛いことを経験してきたはずだが、スクリーン上の素子がそれぞれピカピカ光っているのと同じように、宇宙における「素子」が点いたり消えたりしているだけなのだと理解することができる。つまり、この世の中はドラマや映画の世界と同じように「幻」であると考えることができるのだ。これを知ることが釈迦の悟りだと苫米地氏は言っているのだ。

 

悟るのも難しくなければ、悟りについて理解するのはもっと簡単です。ただ「この世は幻」と知るだけのことです。「幻」と聞くと「この世が存在しないなんて恐ろしい」と思う人がいるのですが、この世が「ない」とは言っていません。物理空間では、素粒子の状態に過ぎないということです。(『お釈迦様の脳科学』より)

 

このことは容易に想像できるはずだ。例えば、アンパンマンは情報空間に確かに存在しているが、それは物理空間には存在していない。そんなことはちょっとませた小学生でも分かっていることである。現実世界もそれと同じで、「幻」であると苫米地氏は言っているのである。これが釈迦が悟ったことであり、悟ることで苦しさから開放されると言っているのである。

 

では次に「縁起」の話をしよう。上座部仏教が「釈迦の悟り」として考えた「縁起」とは何を指すのだろうか。日本ではよく「縁起が良い」というような使われ方をしている言葉であるが、ここでいう「縁起」は少し違う。

 

縁起とは「縁」によって「起」こると書きますが、それ単体で成り立つものは何もなく、すべては他のものとの関係性によって成り立っているという思想です。(『お釈迦様の脳科学』より)

 

唐突だがここで「自分(自我)」を定義することを考えてみてほしい。おそらく「私の父は〇〇で、母は△△です。✕✕出身です。」というようなことを言うだろう。ここで「自分」と〇〇、「自分」と△△、「自分」と✕✕との関係性を考えてほしい。実はこの関係性自体が「縁起」なのである。つまり「自分」を定義するときに自分以外のものを用いることなく独立して定義することはできないのである。また、自己紹介するときに用いた〇〇や△△に注目してほしい。自分にとって重要なもの(関係性の高いもの)から列挙していることになっている。そして、自分の事を細かく説明すればするほど、自分から離れていってしまっているのだ。例えば、のび太くんを定義しようとすると、「アニメのキャラクター、日本人、ひろしとみさえの息子、小学生、ドラえもんの友達、、、ドラえもんとは猫型ロボットで〜、、、」のようにどんどんと離れていってしまうのだ。以上のことから、自我の定義は「すべてのものを重要度順に並べる関数(評価関数)」であると理解することができる。

さらに自我とは、数学的な点と同じように存在しているようで存在していない。どういうことか。まず点の定義をみてみよう。まず平面上にあって平行でない異なった2直線の交わっているところのことである。これは確かに存在することは感覚的に想像できるだろう。しかし、直線には幅はないため、点に面積はない。点はたしかにあるの存在するのだが「点を見せてよ」と言われると困るのである。言い方を少し変えると、点は物理空間に存在はしないが、情報空間には存在するのだ。すなわち、自我も同じように物理空間には存在していないことになる。これは考えてみると当然のことで、自我とは自分の身体のことでもないし、脳のことでもないことは明白である。この考え方は「自我は「空」である。」という龍樹(ナーガールジュナ)の思想と一致する。このことからも分かるように「縁起」とは「空」の考え方と重なるのである。

 

では、「縁起」から考える悟りとはなんだろうか。ここで、スコトーマ(盲点)という概念を説明する必要がある。スコトーマとはもともとは眼科用語で盲点のことを指す。高校の生物の授業を少し思い出してもらいたいが、人間の眼の中の網膜には神経が集まっている部分があるため、見えていない部分(盲点)が必ず存在している。この部分をスコトーマという。ちなみに日常的でそれを感じていないのは、脳がうまく処理してくれているからである。さて、ここで話したいスコトーマとは眼科用語の盲点ではなく心理学的な盲点のことだ。どういうことか。例えば、ある夫の妻が妊娠するとその夫は街中にこんなにも妊婦さんがいたのかということに驚くという話がある。この現象はスコトーマを用いて説明することができる。妻が妊娠する前まではスコトーマにより見えていなかった妊婦が、妊娠後に見えるようになったのである。これを「スコトーマが外れる」という表現をする。ここで先程「自分」とは「すべてのものを重要度順に並べる関数(評価関数)」であるという話をしたことを思い出してほしい。スコトーマとは、まさにこの重要度を決めているものである。そして、上の例からも分かるようにスコトーマは環境や体験により時々刻々と変っているのである。釈迦はこのスコトーマを外しまくり、最終的に外しきったのである。つまり、自分も含むこの宇宙すべてのものの重要度が同じになったのである。その時の釈迦に「あなたのお母さんとこの石ころはどちらのほうが大事な存在ですか?」と聞くと、おそらく釈迦は真剣に悩んで答えることが出来ないだろう。釈迦はこれを瞑想修行の末に体感したのである。

 

以上、「空」と「縁起」を用いて2つの方向から釈迦の悟りについて話してきたが、実はこれらは釈迦が悟ったことではなく、釈迦が悟った後に悟りについて語ったことである。従ってこの話はここでは終わらず、釈迦が何を悟ったのかについて話したいと思う。少し長くなりそうなので次回、その話をしてこのシリーズを終わりたいと思う。

 

(明日に続く)