daikosh's blog

1日1アウトプット

釈迦の悟りとは。ー釈迦と科学3ー

 

前回は「空」と「縁起」について説明したが、両者の考え方をまとめると以下のようになる。

釈迦の教えとは「自と他に差はない」と知ることなのです。それが悟りの境地です。自と他は同じものだから。(『お釈迦様の脳科学』より)

注意してほしいのがここでいう他とは他人のことではなく、自分以外のこの宇宙全てのもの(梵、ブラフマン)のことである。しかし前回の記事の終わりにも少し触れたが、これはあくまでも「空」と「縁起」を用いた釈迦の教えであり、実際に釈迦が悟ったことではないと苫米地氏は言う。

釈迦の悟りは「空」でも「縁起」でもない。(『お釈迦様の脳科学』より)

「え?!今までの話は全部ウソだったのか?」と驚いた人もいるかもしれないが、そうではないので安心してほしい。「空」や「縁起」を理解しただけでは悟っていないと言っているのだ。これら理解したことを何かしらの方法を用いて体感することが必要なのである。実は東洋哲学ではこの体感が重要なのである。西洋哲学では、理屈を理解して正しく論理的に説明できればよいのだが、東洋哲学では理屈を話したところで本当の意味で理解したことにならないのだ。例えば、蛇が路地裏にいる状況を想像してほしい。悟った人というのは実際にその路地裏に入り、蛇ではなくそれはただのロープであるということを目視して確認(体感)した人になる。しかし、悟った人に「あれは蛇じゃなくてただのロープだよ。」と説明されただけで実際に目視していない人は悟ったことにならないのだ。なぜならその人に「ロープだと知っているなら、あの蛇を獲ってきてよ」と言うと、頭では蛇でないということを理解していてもビビってしまうからである。これに対して西洋哲学では論理的に「あれは蛇ではなくロープである。」ということを論証すれば認められるのである。実はこのような背景もあって、念仏を唱えたり座禅したり公案(ナゾナゾ)を考えたりと様々な方法が悟る方法として取り入れられてきたのである。これらはいわば路地裏に入らせるための方便なのである。従って、今回のシリーズで私がやっていることは「あれは蛇ではなくロープである。」という解説をしているだけに過ぎず、あなたが悟るためには自分自身で路地裏に行く必要があるのである。

話を戻すと、「釈迦の悟り」を苫米地氏はゲシュタルトという言葉を用いて説明している。ゲシュタルトとは人間が捉える一つ一つの要素の集合体(全体)のことである。例えば、ひらがなや漢字などの文字はただの線の集まりだが、我々は一本一本の線を捉えているわけではない。いくつもの線を一つのゲシュタルト(集合)としてみることではじめて読めるのである。釈迦はこの宇宙のあらゆる要素を一つのゲシュタルトとして観たのだ。そしてこの圧倒的体感を釈迦の悟りと言うべきだと苫米地氏は主張している。では釈迦はこのゲシュタルトをどうやって観たのか。それは瞑想である。釈迦は、煩悩を排除し、ひたすら脳をフル回転させて抽象度を究極に上げた末に圧倒的体感を得たのである。これが釈迦の悟ったことである。

 

というわけで、釈迦は「空」や「縁起」を体感して仏陀(目覚めた人)になってめでたしめでたし・・・。と終わっても良いのだが、これだけでは何の役にも立たない。この悟りをどのように人生に活かせば良いかについても苫米地氏はしっかり述べている。

「悟り」は運転免許にすぎない(『お釈迦様の脳科学』より)

悟った次に大事なのは、自分がどういう機能や社会や宇宙に対して果たすかを決めることです。(『お釈迦様の脳科学』より)

「悟り」はゴールで、悟ったら苦悩から開放されて終わりと理解されている人が多いのではないだろうか。私もその一人であった。しかし「悟り」はむしろスタート地点なのである。これを苫米地氏は「仮観、中観、空観」という3つの世の中の捉え方を用いて説明している。

「仮観」とはこの世はリアルであると思いこみ、現世利益を追求する見方である。お金、地位、名誉があればあるほど良く、強いものが支配する動物的な世界観である。しかしこれでは争いごとが絶えず。一方、「空観」とは「この世は幻である」という「空」や「縁起」の思想のことであり、このシリーズで散々話してきた世界観である。 しかし、「空観」だけでは、「幻ならば人を殺しても構わない」といったようなオウム真理教の論理になってしまう。では「中観」とはどのようなものか。苫米地氏は以下のように説明している。

この世を幻と認識した後に、自分がこの世界でどのような機能を果たすかを決め、さらに他の人にもそれぞれ機能があると認められるようになれば「中観」です。(『お釈迦様の脳科学』より)

この「中観」の世界観で生きることが、人生を生きる上での運転免許だと言っているのである。つまり、利他の境地である。この世における自分の役割をしっかりと認め、社会貢献をするべきだと言っているのだ。もちろんその機能(目標)は自分で決める必要があるが、悟った人であればその目標は情動(煩悩)から離れた、抽象度の高い利他的な目標になることは明らかだろう。

 

最後に、そもそも釈迦はなぜ悟り、その悟りについて後世に残したのだろうか。大げさでもなんでもなく、それはきっと世界平和のためだろう。彼は世界から戦争や差別などあらゆる苦悩を無くそうとしたのである。運転免許を持っている人が運転していても交通事故が起こっていることからも、仮に世界中の人々が悟ることに成功したとしてもおそらく苦悩はなくならないのだろう。しかし、運転免許という制度が無い世界よりは圧倒的に安全であるのは間違いないだろう。さあみなさんも人生の運転免許を取りたくなったのではないだろうか。このシリーズをしっかりと理解できたあなたは既に筆記試験に合格しているようなものだ。残すは瞑想でも座禅でも念仏でもなんでもいいのだが、技能試験のみである。

 

 

(補足)

「空」の話で少し書き忘れたものがあるので追記しておく。実は「空」は数学的な定義ができる。厳密さにはかけるが、簡単にいうと「空」とは「全ての概念(犬とか動物とか)が含まれている空間の中で、任意の2つの概念を比べてどの任意の2つよりも情報量が少ないもの」である。従って、「空」は最も情報量が少ないものなのである。有か無(存在するかしないか)すら分からないのだから。ちなみに、その反対が完全情報であり、いわゆる一神教の神のことである。完全情報は最も情報量が多いものである。しかし以前にも話したが、これは不完全性定理よって否定されているのである。