daikosh's blog

1日1アウトプット

茶道について。

 

千利休。おそらくほとんどの日本人が聞いたことがあり、茶人であるということを知っているのではないだろうか。しかしよくよく考えてみると、なぜ中高の歴史の授業で一茶人が登場するのだろうか。(これをよくご存じの方はこの記事を読まなくてもいいかもです笑)おそらく授業でやっていたのだろうと思われるが、私もほとんど記憶になかった。そもそもなぜこのような話をしているかと言うと、オリラジあっちゃんが茶道と千利休についての動画を昨日と今日の二本立てで上げたからである。私はその動画を見て、全く知らなかった茶道の一面を知ることになった。詳しくは動画を見てもらえれば分かることなので、ここではざっと要約したいと思う。

 

時は鎌倉時代。元々、茶道は禅の修行の一つとして中国から日本に輸入された。禅とは仏教の宗派の一つである禅宗のことで、座禅の禅である。室町時代に入ると、茶道は一つの文化として足利義政を筆頭に、貴族がたしなむようになった。この部分は以前に私が立てた仮説(茶道は貴族のゲーム)と重なっていると考えられるのだが、その後の展開が非常に面白い。戦国時代に入り、あの織田信長がこの茶道というものを政治の道具として利用したのである。ではなぜそんなことをする必要があったのだろうか。というかそもそもどのようにして茶道を利用したのだろうか。説明したいと思う。

 

実は、鎌倉幕府がどのように滅びたかを信長は知っていたようのだ。一体どういうことか。鎌倉時代末期、北条時宗率いる幕府軍元寇モンゴル帝国)と戦い、運良く勝利することに成功した。しかし、この戦いはそれ以前のものとはわけが違ったのだ。それは、敵が外国であったという点である。何故これが問題になるのだろうか。国内での争いの場合、勝利したものは褒美として敗者の土地をもらうことが出来たのである。しかし、外国に勝利したところで、そもそも新しい土地は得られていないため、褒美としての土地がないのである。これが引き金となり、褒美を得られないことに対する不満による反乱で鎌倉幕府は滅びていくのであった。

これを知っていた信長は、武士たちに対する褒美として茶道を利用することを思いついたのである。そして、信長はまず名物と呼ばれる茶器を強制的に収集したのだ。このことにより、名物の価値を釣り上げた上で、高価な褒美として利用できるようになった。また、茶会の開催権自体を特権にしたのである。信長政権下でこの特権を得ていたのは、柴田勝家丹羽長秀明智光秀豊臣秀吉の4人だけだったそうだ。豊臣秀吉は、信長から茶会を開いてよいと言われた際には、泣いて喜んだそうだ。この時点で、茶道自体が大きな力を持っていることに驚かされる人も多いのではないだろうか。このことからも、信長は戦いの戦略だけでなく、政治的にも頭の切れる男だったことが伺える。ちなみに、このように茶道が政治利用されていることを「御茶湯御政道」というそうだ。

さて、この流れで登場するのが千利休である。彼は信長の茶頭に任命され、出世していくのである。本能寺の変の後は豊臣秀吉の茶頭となり、順調に権力を手にしていくのあった。皇室に近づき、関白となった秀吉と共に皇室に献茶をしたり、黄金の茶室を作ったり、北野大茶会という誰でも参加できるお茶会なども実施したようだ。ところが、利休の最後は悲劇である。なんと秀吉から切腹を命じられて死んでいくのである。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。これは一つの定説であるが、おそらく権力を手にしすぎたからだと言われているそうだ。豊臣秀吉石田三成は、権力をどんどん付けていく利休に恐怖を覚え、排除したのだろう。つまり、もしかすると日本は茶人が治める国になっていたのかもしれないということになるのではないだろうか。これらの事実を知ると、千利休が歴史で取り上げられるのも納得である。

 

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