daikosh's blog

1日1アウトプット

他人の手で握られたおにぎり。

 

昨日、面白い記事を見つけたので紹介する。ある入試問題についての記事であった。医学部の入試で、以下のような小論文の問題が出たそうだ。

 

【問題】
あなたは高校の教師である。ある日、授業の一環として稲刈りの体験作業があり、僻地の農家に田植えの体験授業に生徒を連れて出かけた。稲刈りの体験作業の後、農家のおばあさんがクラスの生徒全員におにぎりを握ってくれた。しかし、多くの生徒は他人の握ったおにぎりは食べられないと、たくさん残してしまった。

[問1]
あなたは、おにぎりを食べられない生徒に対しどのように指導しますか。

[問2]
あなたはこの事実をおばあさんにどのように話しますか。

(2019年 横浜市立大学 医学部医学科小論文試験 改題)

 

さあどう答えるだろうか。みなさんも一度考えてみてほしい。もちろんこういった問題に答えなどなく評価基準も様々だろうが、この記事の筆者は以下の3点だろうと予想している。 

 

それは、(1)少数者の人権尊重・擁護に対する考え方、(2)高齢者に対する意識の度合い、(3)言いにくい事柄を他人に告白する際の話術の3点である。

医学部入試で出た「他人のおにぎり問題」あなたはどう答えますか?(小林 公夫) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)より)

 

なるほど。医者に将来なるという前提では、確かに重要視されそうなことばかりである。では私はどう答えるだろうか。少し考えてみた。

まず問1。今回は試しに、以前取り上げた国語脳と数学脳を用いて回答してみようと思う。

daikosh.hatenablog.com

 ここで簡単にだけ説明しておくと、国語脳とは感情に訴える力のことであり、数学脳とは論理的に物事を説明する力のことである。

まずは、食べられないと言っている生徒に食べてもらえるように努力する。国語脳的に考えると、農家のおばあさんや私自身が悲しむことを伝えるべきだろう。そして自らそのおにぎりを食べてみせ、その美味しさを表現するだろう。数学脳的に考えると、他人の握ったおにぎりを食べることは衛生的になんら問題ないという点や、むしろその程度のレベルの細菌を食べることにより、免疫力が上がり健康に良いという点を伝えるだろう。このような社会的な価値観や知識を教師は予め伝えるべきだと思う。それでも駄目だった場合は、もちろん強制などせず、その生徒の意思を尊重したいと考える。

 

次に問2。これはこの記事で取り上げられている答えと同じになってしまうのだが、私も嘘をつくだろう。まさに「嘘も方便」である。ここで事実を伝えたところで、誰も得はしない。反対に、ここで嘘をついたところで、誰も損はしない。従って、「全員がすべてのおにぎりを美味しく食べきりました。」と伝えるのが妥当であろう。

 

 

ところでこの記事によると、なんと今の小学生の半数以上が他人の握ったおにぎりが食べられないそうだ。

 

 ベネッセ教育情報サイト(2018年)によれば、小学生の子どもを持つ保護者を対象にしたアンケートで、「お子さまは、どのおにぎりなら食べられますか?」(複数回答)という質問に対し、お母さんが握ったもの(85・6%)、友人・知人が握ったもの(45・8%)という結果が出たそうだ。この数字からすると、54.2%の子どもが「他人(知人・友人)が握ったおにぎりを食べられない」と感じていることになる。

医学部入試で出た「他人のおにぎり問題」あなたはどう答えますか?(小林 公夫) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)より)

 

この事実に衝撃を受けるのは私だけだろうか。確かに、安全性や清潔に対する日本人の徹底ぶりは目の当たりにしてきたが、ここまできたとは驚きである。なんというか、日本人の「潔癖症」はどこまで行けば気が済むのだろうか。そのうち、機械が作ったおにぎりしか食べられないという生徒が出てきてもおかしくなさそうである。

清潔で安全なことは一見良いことのように思えるが、果たして本当にそうだろうか。清潔すぎる環境で育ってきたことでアレルギー体質になったり、免疫力が低くなったりすることは列記とした事実だ。「きれいであればきれいなほどよく、安全であれば安全であるほどよい。」といったような考え方ではなく、「どの程度のきれいさ、安全性であればよいのか」といった観点で、今一度これらの事柄は捉え直すべきではないのだろうか。

 

 

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