daikosh's blog

1日1アウトプット

芸術の定義。〜アートの本質〜

 

前の記事の続きである。

 

ディベートの結果、「芸術とは感情を動かすもの」ということになったという話をした。これは相対的な定義であり、同じものでも人に依っては芸術作品にもなるし、ただのガラクタにもなるということである。

 

ここで、現代アートの先駆者であるフランスの芸術家マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)に関する逸話を紹介したいと思う。彼は、男性用小便器を逆さまに置いて、『泉』という題名をつけたり、レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』に髭をつけた作品で有名である。

彼は、彼自身の個展で少し溶けたバターを床において、芸術作品の一つとして展示していたそうだ。しかし、その床に落ちているバターを見た清掃員が、それをゴミであると勘違いして掃除したというのである。

これが本当の話かどうかは置いておいて、この話から芸術作品であるかどうかは鑑賞する人に依存するということがよく分かる。

例えば、落書きや、白いキャンバスに点を打っただけのものを芸術作品といえるかどうかといった議論がある。上述の定義に従うと、その答えは「Ça dépend(人に依る)」である。

 

他にも「芸術とは心に傷をつけるものである」という定義を社会学者の宮台真司はよく言っている。「アートとは、元に戻れなくすること」「価値観が変わるほどの、元に戻れなくなるほどの、深い傷をつけること」。この定義も個人的には納得がいく。しかし、定義というよりかは、これはどちらかというと芸術の性質であると思っている。詳しくは以下のサイトを参照されたい。

www.buchinuku.work

 

このように芸術には様々な定義があり同時に提案もされているのだろうが、私がミシュラン提訴事件のニュースを見ながら思いついた定義がある。それが「芸術とは客観的に格付けできないもの」である。

まず、前回の記事で取り上げた10種類の芸術はこの定義は包括している。建築、彫刻、絵、音楽、文学、舞台芸術、映画、メディア芸術、漫画、デジタルアート。これらは全て客観的に格付けすることができないはずである。その他にも、料理やiPhoneなどの電子機器や電化製品ですら芸術作品と言って良いことになる。

 

そもそもアート(art)とはどういう意味なのだろうか。実は昔、リベラルアーツについての記事で、アーツ(arts)について少し触れている。

まず、欧米圏では学問をサイエンス(Science)とアーツ(Arts)の2種類に分けている。サイエンスは神が作ったもの(自然科学、社会科学など)についての学問で、アーツは人間が作ったもの(文学、歴史、哲学など)についての学問である。

リベラルアーツについて。 - daikosh's blogより)

 

 

つまり、人間が作ったもの全てを芸術作品と言って良いのではないのだろうか。確かに、(神が作った)山や川を見て芸術作品という人はいないだろう。しかし、そこに少しでもヒトの手が加わると芸術作品となる。例えば、富士山を芸術作品ということはできないが、五山の送り火は芸術作品と言ってよさそうである。

 

このように、アートの語源に立ち返ると芸術の本質のようなものが見えてきた。もちろんこれは日常生活には実用的でない定義かもしれない。しかし、我々の活動の全てが芸術だと思えるだけでワクワクするのは私だけだろうか。

 

日々を生きていることが芸術であり、その人生は一つの芸術作品なのである。