daikosh's blog

1日1アウトプット

怒る人。怒らない人。

 

イライラしている人を見るといつも不思議に思う。どうして彼等は怒るのだろうか。そういう性格だからと言われるとそれでお終いなのだが、ここで私は一つの仮説を立てた。それは

 

「視野が狭い人は怒る。」

 

というものだ。ここでいう視野とはなにも物理的な視界のことではない。起こった事象の背景や状況など、様々な要素を鑑みることができるかという話である。つまり、ある現象が起こった時に、人はその物事を一面的にしか捉えていないから怒るのであって、多面的に捉えるとその事象はどうでもよいこと、もしくはしかたのないことに感じられ、怒らないと思うのである。

具体例を考えてみよう。例えば、カフェで店員さんにコーヒーを自分のお気に入りの服にこぼされたとしよう。さて、あなたなら怒るだろうか。このときにその店員のことを考えてみてほしい。もしかすると、その店員はアルバイトを始めたてであったかもしれない。もしかすると、入店時に自分が身にまとっていた雨の雫で床を濡らし、そのために滑ったのかもしれない。はたまた、その店員は自分の夢を追いかけるために徹夜をし、ふらふらな状態でバイトをしていたのかも知れない。そんな状態でアルバイトをするなと思うかも知れないが、もしそのアルバイトをしなければその日に必要な生活費が稼げなかったらどうだろうか。このようにして、我々はいくらでも想像することができるのである。もちろんこれらは少し非現実的なことなのかもしれないが、ありえない話ではない。いずれにせよ、このようにして考えてみると怒ろうにも怒れなくなるのではないだろうか。

ニーチェがこんな事を言っている。

 

事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。

フリードリヒ・ニーチェ

 

つまり、解釈次第でどうとでも捉えることができるということである。従って、怒る人と怒らない人の違いは、ある事象を自分が腹の立つように解釈をしているか否かということになる。視野が広い人は腹が立たない解釈の方向に自ずと思考しているのだろう。なぜなら視野を広げた場合、我々個々人の存在など無に等しいからである。また、視野を広げれば広げるほど、本当に自分が正しく相手が悪いといったようなことが言えなくなってしまうのである。従って、怒らないというより怒れないと言ったほうが正しいのかも知れない。

おそらく、これに似たような状態が仏教のいう「悟り」なのではないだろうか。全てのスコトーマが外れるのである。そして、この世の中を一つのゲシュタルトとして捉えることができるのである。詳しくは以下の記事に書いているので参照されたい。