daikosh's blog

1日1アウトプット

リベラルアーツについて。

 

昨日は10月1日。内定式があった。同期は全体で120人。話しても話しても新キャラが出現するので、名前を覚えるのは諦め、とりあえず顔見知りを増産することに努力した。内定式と言いつつも、偉いさんのご挨拶だけではなく、日経新聞の新聞の読み方講座やTOEIC受験と、なかなかハードな1日だった。今回は、内定者研修の説明を聞いて感じたことについて書きたいと思う。

内定式から入社まであと半年ほどあるわけだが、その間に内定者研修としていくつか課題が出された: 読書感想文、そして近況報告だ。これではまるで小学校の夏休みの宿題ではないか。近況報告はまあ良しとして、読書感想文には驚かされた。しかも、読む本は専門書やビジネス書ではなく、芥川賞直木賞ノーベル文学賞を取った文学作品という指定がある。目的は社会人に必要だとされているリベラルアーツを養わせることで、文学作品でも読みなさいということのようだ。私はここで疑問を感じた。「リベラルアーツとはそもそも強制されて得るものではないのでは?」日本で俗に言うリベラルアーツとは役に立つ学問ではない一般教養のことを指すことが多いようだ。確かに、この定義なら文学を読んで幅広い知識をつけろというのは理にかなっているのかもしれない。しかし、リベラルアーツの本来の意味、というか概念を考慮すると、少し違和感を覚えたのだ。ここで、認知科学者の苫米地氏が東大のある歴史学教授を批判していたことを思い出した。その歴史学者はあるインタビューで、「なぜあなたは歴史を勉強してきたのか」という問いに対し、「歴史を知ると未来を知ることができるから」と答えたそうだ。大学の志願者が少ないこのご時世、学生を多く取るための宣伝のつもりでそのように答えたのかもしれない。しかし、苫米地氏はこの発言に対して猛烈に批判していた。「あなたは未来を知るために歴史を勉強してきたわけじゃないでしょ。歴史が好きだからでしょ。学問は学問であることに価値があり、なんかの役に立つかどうかなんか関係ないの。それがまさにリベラルアーツでしょ。」彼の言うように、リベラルアーツとは好奇心によって自発的に学んで得られるものなのではないだろうか。

そもそもリベラルアーツという言葉はどのように誕生したのだろうか。言葉の起源は古代ギリシャ時代に遡る。まずはアーツという言葉について。アーツやアートというと、日本人は芸術を連想するが、本来の意味はもっと広い。まず、欧米圏では学問をサイエンス(Science)とアーツ(Arts)の2種類に分けている。サイエンスは神が作ったもの(自然科学、社会科学など)についての学問で、アーツは人間が作ったもの(文学、歴史、哲学など)についての学問である。一神教であるキリスト教文化が如実に現れていることが見て取れる。また日本の理系、文系とは大きく異なることがわかるだろう。ではリベラルは何を意味するのだろう。直訳すると「自由な」となる。一体何が自由なのだろうか。それは「学ぶことが自由」なのである。つまり、生きていくために必要な実学ではなく、学ばなくても生きていけ、学ぶか学ばないかは自由であるという意味が「リベラルアーツ」という言葉に込められているのだ。

現代ではリベラルアーツという言葉をよく目にするが、その言葉の意味を正しく知っている人はどれくらいいるのだろうか。また、何故こんなにも流行っているのか。それはきっとビジネスの世界で、リベラルアーツを身につけた人が「結果的に」成功しているケースが多かったからだろう。そして、その事実だけを見た誰かが「リベラルアーツ」の重要性を唱えたのだと推測する。しかし、本来リベラルアーツは強制されるべきではないのである。

 

最後に、私は会社の研修を批判しているわけではない。これをきっかけに自発的に文学作品に興味を持ち、本来のリベラルアーツを養うことができる可能性も大いにある。(もちろん文学作品を読むことだけがリベラルアーツにつながるということでない。)ただ、内定式で聞いた目的の説明にふと違和感を感じて、リベラルアーツについて考えたいと思ったので、今回取り上げたまでである。