daikosh's blog

1日1アウトプット

日本人の交通マナー

 

今週の月曜日、自動車運転免許の更新に京都駅前の運転免許更新センターに行ってきた。2回目の更新かつ違反もなかったので、優良運転者講習の30分間で済んだ。6✕7程度に並べてあった席での講習は、高校の授業を彷彿とさせ、とても懐かしく感じた。その講習で、ある海外の雑誌に載っている日本人の交通マナーについての記事が取り上げられた。

 

「日本人は規律正しく、礼儀正しい。信号も守るし、横断歩道をしっかりと渡る。しかし、信号のない横断歩道を渡ろうとしている人のために待つ車は極めて少ない。」

 

30分の講習ということもあってか、いかにも正義感の強そうな50代であろう男性講師はテンポよくスライドを変えて講習を進めていた。そのため、「横断歩道を渡ろうとしている歩行者がいる場合にはしっかり止まりましょう。」と後に添えただけで、すんなりと次のスライドに移った。おそらくほとんどの受講者もさらっと流して次の話に集中していたことだろう。しかし、私はふと日本人の国民性について考えを巡らせていた。帰国子女であり、昨年1年間留学していた身である私には、海外から見た日本人の国民性や文化などの事柄に関してすごく気になるのだ。なぜ日本人はそのような行動を取るのか。今回は、そのわけを自分なりに考察したものを記す。

 

 

普段は大人しいひとであっても、自動車のハンドルを握った途端に態度が大きくなり、暴言を吐いたり、乱暴な運転をしたりする人がいる。まるで私が常に正しいかのように、対向車や歩行者を批判する。実際に私の父親にもそういった気が少しある。心理学的にはドレス効果や没個性化がこの現象の主な原因であるらしい。ドレス効果とは、制服を着ることで別人格になることを言う。例えば、警察官や消防士が制服を着ているときの方が、正義感が増し、より勇敢になる。運転者に当てはめると、「自動車という制服」を着ることで、歩行者より強くなった気分になるといった具合になる。また、没個性化とは、自動車がプライベートな空間を作ってしまうため、パブリックな空間にいるのにも関わらず、匿名になったような気分になることを言う。匿名感覚が強くなると、責任感や善悪の概念が減少し、横暴な態度を取りやすくなるそうだ。長々と書いてしまったが、要するに自分が歩行者であるときと運転者であるときとの態度には差が生じるのである。これはどの国の人にもあてはまることなのだろう。しかし、日本人はそのギャップが比較的大きいため、上のような行動を取りやすいのではないかと思う。なぜか。

 

日本人は「人目を気にする」からというのが私の考えだ。日本人は人に見られなくなった瞬間に、ルールを守るモチベーションが下がる。従って、匿名性が高くなる自動車に乗った瞬間に、「ま、いっか。」となってしまう訳だ。ではなぜ日本人は執拗に人目を気にするのか。それはそれを必要とさせる文化の中で生きているからだ。その文化とは恥の文化である。そもそも日本人の規律正しい行動や、ルールを守るモチベーションは何か。それは「目立たないこと」であると思う。それはなぜか。「恥をかきたくないから」である。日本では古くから平等を重んじ、周りと同じ格好や行動をすることでできるだけ目立たないことが美徳とされてきた。そして、他の人と違うことは「恥ずかしいこと」とされていたのだ。これが恥ずかしいことに重きを置いた恥の文化である。グローバル化が進んでいる現在でも中高生が制服をきたり、就活でリクルートスーツを着るといった形でその文化は受け継がれている。反対に、日本人は周りのみんなと同じだと恥ずかしい思いをしなくていいと思い、安心するのだ。今回の話に当てはめると、「前の車が止まらなかったんだから、私も止まらなくていいだろう」といった感じだ。いやもっと正確には、「前の車が止まらなかったんだから、止まったら恥ずかしい。」となる。従って、日本では横断歩道で止まらない車が多いのではないかと思う。

つらつらと書いてしまったが、以上が私の考察である。

 

 

最後に、ここで注意してほしいが、何も日本人を悪く言っているつもりは全く無い。あくまでも日本人の国民性を分析したまでで、良し悪しを言っているわけではないし、言いたくもない。むしろ私は、「日本はもっと欧米を見習ったほうがいい」とか「だから日本人は駄目なのだ」といった日本に対する過剰なネガティブキャンペーン的なものが大嫌いだ。相対的にみるとどんな国にも必ず良し悪しが生じる。その違いが多様な文化を差別化し、特徴づけているのだ。すべての国が非の打ち所のない、ある種「完璧」な国になり、相対的に良し悪しがなくなってしまうとすると、これほどつまらない世界はないだろう。ここで「完璧」な国家とはなにかという話が出てくるが、その話はまた機会があった時にしよう。