daikosh's blog

1日1アウトプット

自分の人生とは。

 

数ヶ月前に『嫌われる勇気』を読んだ。今更感がしないでもないが、とても興味深かったので、感じたことを少し書き連ねてみる。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

  

この本は、アドラー心理学をマスターしたある哲学者とある青年との対話形式で、アドラー心理学の解説をしている。アドラー心理学とは、心理学会の三大巨匠と呼ばれているアルフレッド・アドラーが構築した心理学のことである。彼は「トラウマなど存在しない」と断言したり、「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と断言したり、常識とは一見異なったコペルニクス的転回的な内容が多い。その他にも、原因論と目的論の話であったり、たり興味深い内容は多いのだが、今回は自分の課題と他者の課題について考えたいと思う。

アドラーは自分の課題と他者の課題をしっかりと分離しなさいと説く。一体どういうことなのか。「課題」という言葉を「人生」に置き換えると理解しやすいかもしれない。例えば、ある就活生が親の反対を押し切って、本人の希望する就職先で働くことを決断したとする。この選択は自分の人生を生きていることになる。そして、その選択に対して親がどう思うかは親の課題であり、本人はどうすることもできないということになる。また仮に、親の意向に沿うような別の選択をした場合、それは親の人生を生きていることになってしまう。つまり、他者の人生は変えようと思っても変えることなど不可能なのだから、他者の人生と自分の人生をしっかりと区別した上で、自分の人生を生きるべきだと言っているのだ。以上の内容を、この本では以下のような例えで説明している。

 

馬を水辺に連れてくることはできるが、馬に水を飲ませることはできない。(『嫌われる勇気』より)

 

このことに関連して、アドラーは賞罰教育を批判している。なぜなら、賞罰教育はまさに他者の人生を生きるように仕向けるような教育になっているからだ。例えば、ある子どもが母親の手伝いをしたとする。この行為に対して、母親は「えらいね」とその子供を褒めたとする。するとどうなるのか。その子供は褒められて嬉しくなり、また褒められたいと思い、また同じような行動をするようになるのだ。

この話の一体どこがいけないことなのだと思うかもしれない。しかし、これは母親の課題すなわち母親の人生を生きていることになるのだ。つまり「母親に褒められるために行動をする」という行為自体が純粋な自分の意思から生まれた主体性ではなく、あくまでも母親のための行動になってしまっているというのだ。

ここで私は岡潔という日本の天才数学者の言葉を思い出した。

 

私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。

私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである。

岡潔

 

スミレは誰かに美しいと思ってもらうためにキレイに咲いているわけではない。また、蜂に栄養を与えるために咲いているわけでもない。スミレはただスミレとして咲いているわけであり、それが他の植物や動物にどのような影響を与えているかなどスミレは一切考えていないということだ。

これを私達人間に当てはめるとどうなるか。私は母親のためにでも家族のためにでも日本のためにでも地球のためにでも生きているわけではない。私はただ私として生きているだけなのである。 

ところが、この考え方は自己中心的な生き方を肯定してしまっているように思える。しかし、よく考えてみるとそれはそれでいいのかもしれない。人間はどうしても対人関係からは逃れることはできない社会の中に生きているが、周囲の人にどう思われようとなんとも思わずに死んでいけるような人がいるとすれば、その人にとってはとても幸せなことなのかもしれない。(それが社会の中で善いとされるかどうかは別として。)