daikosh's blog

1日1アウトプット

人間はなぜ「ここはレストランだ」とわかるのか。

 

今日は彼岸の墓参りをして、『認知科学への招待』という本を読んだ。人工知能(AI)が流行りの今、また哲学や仏教を勉強する上で、認知科学について少しは勉強しておこうと思ったのだ。この本の筆者である苫米地氏のことは以前から知っており、彼の本も何冊か読んだことがあるが、彼の専門である認知科学の本は初めてだ。しかも、苫米地氏は哲学や仏教にも精通しており(というか認知科学はそれらを内包していると彼は主張する。)、まさにうってつけの本だった。

認知科学への招待

認知科学への招待

 

前半は、認知科学史の解説だった。認知科学がどのように研究されてきて、発展してきたかが、本人の経験談を交えて説明されていた。へえと感じただけで、特に面白い部分はなかった。後半はフレーム問題を扱い、人工知能の限界や、苫米地氏独自の人間の認知に対する大胆な仮説が展開されている。このパートこそがこの本の真髄ではないだろうか。読んでいて非常に興奮した。今回は、この内容に関しての記事を書きたいと思う。

 

まず、人工知能のフレーム問題を簡単に紹介しておこう。なぜ認知科学の話に人工知能の話が出てくるのかと疑問に思う方もおられるかもしれないが、それは人工知能がまさに認知科学の産物であるからだ。話を戻すと、フレーム問題を一言で説明すると「有限の情報処理能力しかない人工知能は、現実に起こりうる問題全てに対処できない」というものだ。

例えば、人工知能にレストランを認知させたかったとする。そのためには、「レストランには店の看板にレストランと書いてある」とか「お客さんが中で食事をしている」など、レストランの情報(知識)を予め入れておく必要がある。さらに、レストランでないための情報も入れておく必要がある。つまり、それらの情報は無限に存在しており、それらを全て取り込むことは不可能だ。仮に、それらを取り込むことに成功したとしても、それらすべての情報にアクセスして計算をする羽目になり、それには無限の時間がかかってしまう。これは、最近流行りのニューラル・ネットワークをもってしてでも、同様の問題が生じてしまう。他にも、ソフト・ユニフィケーションという「ある程度、合致している情報で判断を下す」機能を入れてはどうかという話もあるらしいが、簡単な場合には判断できるかもしれないが、膨大な計算をすることに変わりはなく、人間はそんなことはしていないことは明らかである。

これがフレーム問題であり、未だ解決されていないのだ。すると必然的に以下のような疑問が湧いてくる。

 

人間はなぜ「ここはレストランだ」とわかるのか

(『認知科学への招待』より) 

 

上述のフレーム問題からもわかるように、現在の科学ではこの問いに答えることができないのである。もしかすると鋭い方は、人間は今までの人生でレストランを何度も経験(五感で感じている)して、それらを上手く抽象化して記憶しており、その抽象化されたデータを用いて判断しているのだと思うかもしれない。しかし、問題はその抽象化の仕方を未だ誰も説明できていないのが現実である。

この問題にしたして、苫米地氏は3次元の世界より抽象度の高い「超情報場」なるものが存在して、そこにそれぞれの概念が存在しており、それらを人間は認知しているという大胆な仮説を提唱している。

 

私の答えは「そこがレストランだから」です。

もう少し分かりやすく言えば「いかにも『ここはレストランだ』というオーラのようなものを出していて、それを感じるから」です。

(『認知科学への招待』より) 

 

苫米地氏は、レストランというオーラのようなものが「超情報場」に存在しており、人間がそれを感じているというのだ。「超情報場」にあらゆる概念が存在しており、それは3次元空間のあらゆる場所に写像することができる。つまり、我々人間のは3次元空間に物理的な身体を置きながら、より抽象度の高い「超情報場」にアクセスすることができる「意識」というものを持っているということだ。眉唾物のように感じるかもしれないが、そう考えると辻褄が合うことが多いのが事実なのだ。人工知能もこの高い抽象度を持った「超情報場」にアクセスする方法が見つかれば(できるかどうかは置いといて)、ドラえもんターミネーターを誕生させることもできるかもしれない。

 

これはまさにプラトンイデア論ではないだろうか。正直、イデア論を学んだときは、確かに論理的に筋は通っていて面白い考え方だとは思ったが現実味はあまり無いなあと感じていた。しかし、認知科学の最前線にいた苫米地氏が言うとなると話が変わってくる。さらに、本書のように順序立てて説明されると、納得できないこともない。

イデア論とは、現実世界の他にイデア界という完全な世界が存在しており、そのイデア界に完全な概念の実態が存在するという考え方である。例えば、完全な三角形が現実に存在していないのにも関わらず、人間は三角形の概念を理解しているが、それはイデア界に完全な三角形が存在しており、それを人間は現実世界に投影された写像(似像)として捉えているからだということになる。

苫米地氏の言う「超情報場」とはまさにイデア界のことではないだろうか。紀元前3世紀に人類がこの境地に既に達していたと思うと驚きを隠せない。と同時に、人類の知の限界を垣間見たように感じた。

 

(明日に続く)