daikosh's blog

1日1アウトプット

意識と無意識。

 

昨日に引き続き、『認知科学の招待』について書きたいと思う。昨日は、人工知能には限界が存在し、現在の認知科学も人間がものを認識するメカニズムを理解できていないという話をした。その問題点を簡単に理解するためにフレーム問題を取り上げて説明したのだが、その解決策として、苫米地氏は「超情報場」仮説というものを提案しているのであった。その仮説を簡単に説明すると、3次元の世界より抽象度の高い「超情報場」なるものが存在して、そこにそれぞれの概念が存在しており、それらの概念を人間は認知しているというものである。そして、3次元の世界と「超情報場」を行き来するものが人間の「意識」であるという話をしたが、この話には続きがある。

その「意識」なるものを宗教的な人は「魂」と呼ぶのである。その他にも、宗教的な人は「あの世」の存在を信じたり、「神」や「悪魔」を信じたりしている。これらがもし存在するとなると、3次元空間ではなく「超情報場」に存在すると説明するのが自然だと苫米地氏は説明する。それを霊能力者や超能力者が本当に「認知」できているかどうかは置いておいて、少なくともそれらの存在を否定することはできないのだ。

 

それが、人類の心が生み出したものなのか、最初から超情報場にあったものなのかは、知りようがありません。だから、それについて考えてもあまり意味がありません。(『認知科学への招待』)

 

次に、現実とはなにかという話をしている。これが特に興味深かった。認知科学の世界では物理場(3次元空間)にしか現実が存在しないと考えられてきたが、情報場(超情報場ではないので注意。)にも現実は存在するというのだ。例えば、人間は小説を読んだりや映画を観ることでリアリティを感じることがある。一般的に言えばこれは現実ではないと考えられるが、苫米地氏はこれも現実であると考える。つまり、普段の生活では物理場のリアリティが非常に強いため、物理場での出来事のみを現実であると捉えがちだが、情報場のリアリティも現実かもしれないということだ。さらに、苫米地氏はこう続ける。

 

同じ物理場に存在していても、それぞれの人にとってのリアリティは違うので、それぞれの人にとっての現実も異なってくる。(『認知科学への招待』)

 

話がだんだんとSFじみてきたが、冷静に一つ一つ内容を精査していくと、筋が通っているように感じる。また、それぞれの人にはそれぞれのリアリティに次元が存在しており、ある人が生まれるとその人の次元が生まれ、その人が死ぬと、その次元が消滅するのだ、つまり、この世界には人間の数だけ次元が存在すると主張している。

 

この「人が一人死ぬと、次元が一つ減る」というのは、「次元の消滅」を意味するのかもしれませんし、「完全なる消滅ではなく、アクセス不能になるだけ」かもしれませんが、いずれにしてもアクセスできないことには変わりはないわけですから、結局は同じことです。(『認知科学への招待』)

 

上述した「魂」の話と同じように、人が死ぬとアクセス不能になるという事実しか残らず、その後どうなっているのかは誰にもわからないのである。そう、仏教の考え方である輪廻転生を科学的に否定することはできないのである。ここで、私は宗教が今も昔も大きく人間に作用してきた理由を少し理解できた気がする。きっと人間は思考を持っている限り、宗教的な考え方からは逃れられないのである。

しかし、ここで問題が生じる。全ての人間は同じ物理場に生きていながら、それぞれが異なる現実に生きていることになる。では、我々はどのようにしてコミュニケーション(臨場感空間の共有)をしているのだろうか。物理場に存在するものに関しては五感を利用している。では、情報場に存在する「夢」や「概念」はどうだろうか。最もわかりやすい方法が、「言語」である。その他にも写真や動画、演劇なども方法の一つに入る。ここまでの話を聞いていると、「超情報場」の情報はどのように共有しているのかという疑問が湧くのが自然だろう。最もわかりやすいものが「ホメオスタシス」であるそうだ。

 

ホメオスタシスとは、環境と身体とのフィードバック関係(恒常性の維持)のことです。例えば、暑い環境で汗をかくとか、寒い環境で毛穴がふさがるとか、暗いところでは目の瞳孔が広がるとか、そういった環境と身体とのフィードバック関係のことです。(『認知科学への招待』)

 

もちろん、これはあくまでも苫米地氏の仮説である。しかし、人間は思っている以上に無意識に考えたり、行動したりしている生き物である。ホメオスタシスとはまさにこの無意識の作用によるものである。つまり、人間は無意識に概念を認知する能力を持っているという考え方もあながち間違っていないのかもしれないと感じた。3次元空間と「超情報場」を行き来する「意識」とそれらを共有する「無意識」。この2つの違いは紙一重なのかもしれない。