daikosh's blog

1日1アウトプット

お茶会に参加して。

 

今日は人生で初めてお茶会に参加してきた。いとこの一人が大学の茶道部に入っているのだ。茶道の作法については簡単に知ってはいたが、実際にその雰囲気を味わうとなんだかとても滑稽に感じてしまい、色々と考えを巡らせてしまったのでその話をしたいと思う。

 

「なぜお茶を飲むためだけに、提供する側も飲む側もお互い作法に気を遣いながら、緊張する必要があるのだ。笑」

 

元も子もないかもしれないが、お茶会の最中にそう思ってしまったのだ。何も茶道を馬鹿にしているわけではない。ただ単純に自分がいる状況を俯瞰でみてみるとなんだか可笑しく感じたのだ。ここで一つの考察をしてみたわけである。一つ断りを入れておくが、茶道の歴史について調べたわけではないので今から述べることは私の勝手な思いつきであり、仮説である。

 

まずおそらくこの文化は上流階級で花開いたのだろう。言うまでもないが、貧困層にそんな余裕などなかっただろう。作法なんてなんでも良いから、熱いお茶は冷める前に飲んだほうが良いに決まっているからだ。ではなぜ上流階級の人々はこのような文化を作り始めたのだろうか。第一にどんな時代や国であれ、上流階級は暇を持て余していたからだというのが私の考えだ。子供時代を思い出してほしい。ゲームもスマホも無かったとき、勝手にルールを作って遊んだ経験はないだろうか。これと同じような感覚ではないだろうか。つまり、暇を潰すために茶道は一種の娯楽として出来上がったのではないかというのが私の考えである。お茶の飲み方にゲーム感覚で作法というルールを定めて、貴族は遊んだのだ。もちろんこのゲームに明確な勝敗などはないため、娯楽と言えるほど楽しいものではなかったかもしれない。しかし、ただ単にお茶を飲むだけではつまらなかったのだろう。さらに、このゲームには振る舞いの美しさを極めるといった芸術的な要素も入っているだろう。これはこのゲームのボーナスポイントとでも言えばよいのかもしれない。

ところで、このゲームは楽しむだけではなく日常生活で活用できる機能的な側面がある。それはこのゲームに参加した人がどのような出の人であるかおおよそ判断できるというところである。お茶会に呼ばれるだけで、そのプレイヤーがどれだけそのゲームのルールを熟知しているのかを問うことができるのだ。(お茶会に呼ばれている時点で、既に身分の高い人なのかもしれないが。。。と今見直しながら反証してしまった。)この性質を利用することにより、直接調べることなく相手の素性が大体分かるのだ。本音と建前という実に日本的な文化だと思う。もしかすると、こちらの目的が先なのかもしれない。

 

いずれにせよ、こんなことを考えながら今日はお茶会に参加していたのだ。正しい茶道の成り立ちについては気が向いたら勉強しようと思う。