daikosh's blog

1日1アウトプット

『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』を読んで。ー〈ひと〉についてー

 

インドに行く前に読み終えていた『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』のまとめをそろそろしておかないと忘れそうなので、今日から2つぐらいの記事にしてまとめたいと思う。ハイデガー哲学はとにかく専門用語が多く難解であったため、間違いや解釈の違いなどがあれば遠慮なくコメントしていただきたい。

 

ハイデガー哲学入門 『存在と時間』を読む (講談社現代新書)

ハイデガー哲学入門 『存在と時間』を読む (講談社現代新書)

 

 

以前に序文を読み終えた時点で書いた記事があるので参照されたい。

daikosh.hatenablog.com

 

その内容を軽く要約すると、ハイデガー以前の西洋哲学では、例えば神や正義はいる(ある)のかいない(ない)のかであったり、世界はどのように存在しているかであったり、どう生きるべきかといった議論がなされていたのに対し、ハイデガーはそもそも「いる」や「ある」など「存在する」とはどういうことなのかということに着目したのである。実に哲学的な視点だと思う。私は「存在」がどのように説明されているのかワクワクしながらこの本を読んでいたのだが、残念ながらその答えは得られなかった。というのも、ハイデガーが著した『存在と時間』はなんと未完であり、上巻のみが刊行されていただけだったそうなのだ。それにも関わらず、彼は以下のようななんとも思わせぶりな発言をして去ったのであった。

 

「下巻では、存在の正体についてあっと驚く転回(ケーレ)を用意している」(『史上最強の哲学入門』より)

 

彼が本当にその存在の正体について本当にアイデアがあったのかは定かでないが、少なくとも上巻の内容だけでも後に20世紀最大の哲学者の一人に入れられるほどだったことは事実である。あのヒトラーにも影響を与えたと言われており、彼自身もナチスドイツに加担したという事実がある。では、その上巻の内容とはどのようなものなのだろうか。実は下巻に必要な予備知識が書かれている。いわば存在の正体を知る前の準備体操である。基本的には人間の存在について詳しく論じられており、最終的には自己啓発のような人間哲学に行き着いている。ではなぜ人間の存在について知ることが、存在そのものを解明するための準備になるかというと、彼は以下のように考えたからである 。

 

彼は、「存在とは人間の中で生じるもの」だと考えた。

(『史上最強の哲学入門』より)

 

どういうことかというと、「存在」についての疑問を抱いている時点で、人間は「存在」についてある意味知っていることになる。少なくとも、「存在」という言葉を作り出し、考えているからである。それに対して、おそらく犬や猫などは「存在」について考えていないだろう。従って、人間を知ることで「存在」の正体に近づけるとハイデガーは考えたのだろう。今回は、その人間について理解する上で大切な概念である〈ひと〉について話したいと思う。

 

まずハイデガーが言うには、我々は人間はそれぞれが独立した存在ではなく、お互いに影響しあっており、〈ひと〉という共同体として存在していると言っている。

 

〈ひと〉が日常性の存在のしかたを指定しているのだ(『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』より)

 

例えば、あなたは椅子に座ったことがあるだろう。しかし、あなたには一生椅子に座らないという選択肢もあったはずである。ではなぜ椅子に座ったことがあるのだろうか。それは足がつかれるからではなく、周りの人がみんなそうしているからにすぎないということだ。もし全世界の人間が椅子に座らなければ、あなたも座らなかっただろう。これは少し極端な例だが、日常生活の選択の大部分が周りの人に指定されていると彼は主張しているのだ。その周りの人を〈ひと〉と読んでいる。

 

私たちは〈ひと〉が楽しむように楽しんで、そして満足する。〈ひと〉が見て、判断するとおりに、文学や芸術を読み、鑑賞し、判断する。いっぽう私たちが「群衆」から身を退くことでさえ、〈ひと〉が身を退くようにそうするにすぎない(『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』より)

 

また、彼は本来性と非本来性という言葉を使って〈ひと〉ではない個々人(実存)を説明している。あなたが本当に誰の影響も受けていない部分を本来性と呼び、〈ひと〉の影響を受けている部分を非本来性と呼んでいる。実はこの概念が後半の議論にとって重要となってくる。今日のところはこれくらいで。

 

 

(明日に続く)