daikosh's blog

1日1アウトプット

『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』を読んで。ー死についてー

 

昨日の記事の続きである。

daikosh.hatenablog.com

 

さて、前回の記事では〈ひと〉について解説した。今回は、ハイデガーが考えた人間が生きる世界観の説明を通して、ハイデガーの人生哲学を紹介したいと思う。

 

まず、我々人間(実存、現存在)はこの世界に投企され(放り込まれ)、いつのまにか物心がつく。物心がつくということは、自分に選択の自由があることに気づくということと同じである。ここで注意してほしいのが、選択の自由を放棄する"自由"はないのである。このことを後に同じく実存主義の哲学者サルトルは以下のような言葉で説明している。

 

人間は自由の刑に処せられている。(サルトル

 

自由という言葉は一見聞こえが良いが、このような視点から考えると違った一面が見えてくる。我々は一生選択し続けなければいけないのである。毎日着る服、食べるもの、行く場所、会う人、喋る人、寝る時間、、、日常生活のあらゆる行動を私達は選択する必要があるのである。自由には責任が伴うということはよく聞くと思うが、この選択の自由にもあてはまってしまう。我々は物心がついたときから、責任を負っているのだ。それは何の責任なのだろうか。例えば、仕事や勉強であれば、その責任は会社の業績や成績という形で見て取れるだろう。

 

では一体人生における責任とは何なのか。実は、我々人間はこの世界に存在する"目的"を知らないのである。従って、人間は物心がついた段階からずっと"負い目"を感じているのだ。そして、この"負い目"を感じたくが無いために、〈ひと〉に逃避している(頽落する)とハイデガーは言っている。つまり、我々人間は周りの人間に合わせて生きることで、無駄な責任感や不安から逃れて生きているということである。しかし、これは前回の記事の末尾で触れたが、〈ひと〉として生きているわけであるため、非本来的である。では本来的に生きるためにはどうすればよいのだろうか。それは「死」を意識することであるとハイデガーは説く。

 

急にどうして「死」の話が出てくるのかと、「死」こそ人それぞれであり、〈ひと〉に左右されず当人にしか体験できない本来的なことであるからだ。

 

「実存」は間接的に「死」によって規定されている。(『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』より)

 

しかし、人間は「死」への不安を先送りにしがちであるため、ハイデガーは「死」を意識しなさいと言っているのだ。ラテン語で「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」という意味のメメント・モリmemento mori)という言葉があるが、まさに同じことである。またこれは宗教的な回心に近いと説明している。

 

死を見据えて、本当に自分らしく生きようと決意した人間は、自らの歴史に対して眼が開かれ、その時々の周囲の情熱に流されることなく〈中略〉自分の使命(命運)を見出すことになる(『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読むー』より)

 

以上のことをまとめて簡単に説明すると、「周りの人(〈ひと〉)に合わせて(非本来的に)生きることは楽で簡単だけど、それは自分らしい(本来的な)生き方はできない。だから、自分の死を意識することで固有の人生の目的を見つけて、自分らしい(本来的な)生き方をしよう。」ということになるだろう。これだけ聞くと、少しうさんくさい綺麗事のように聞こえるかもしれない。しかし、ハイデガーはこの結論を実に論理的に突き詰めていった結果得られたのである。

 

以上、難解なハイデガー哲学をできるだけエッセンスだけを抽出し、噛み砕いて説明したつもりであるが、どうだっただろうか。少しでもハイデガー哲学の雰囲気を感じていただければ幸いである。また間違った解釈などあれば遠慮なくコメントしていただきたい。この他にも時間や良心についての話などはあったのだが、私自身あまりピンときていないため、また何かの機会で理解が深まれば書きたいと思う。