daikosh's blog

1日1アウトプット

『正義の教室』を読んで。ー自由主義ー

 

続いて、今日は「自由」であることこそが正義だと考える立場の自由主義について話したいと思う。まず、自由主義は大きく2つに分けられる。弱い自由主義と強い自由主義である。前者はリベラリズムと呼ばれている。リベラリズムでは、富裕層に高い税金をかけて貧困層に富を分配し、全員が平等に自由を得られるようにする。従って、「幸福>自由」の不等式が成り立つ。しかし、これは自由主義という仮面をかぶった功利主義であることにお気づきだろうか?結局自由より幸福を優先してしまっているからである。それに対して、後者はリバタリアニズムと呼ばれ、「幸福<自由」の不等式が成り立つ。富の再配分などもせず、個人の自由を尊重するこそが正義だという立場である。この立場こそ、自由主義と堂々といえる立場であろう。ちなみに、本書ではこの2つを次のようにまとめており、後者のリバタリアニズムをメインに取り扱っている。

 

弱者に優しい福祉社会を作る考え方がリベラリズムであり、弱肉強食の自由競争を推進する考え方がリバタリアニズムである。(『正義の教室』より)

 

では、自由こそが正義ならば、殺人は正義になるのだろうか。もちろん、それは駄目である。なぜなら、他人の自由を奪う行為は悪となるからである。つまり、リバタリアニズムを一言で説明すると、以下のようになる。

 

『自由にやれ、ただし、他人の自由を侵害しないかぎりおいて』(『正義の教室』より)

 

では、殺してくださいという人を殺すことはOKなのだろうか。なんとリバタリアニズムの立場ではOKということになる。ここに自由主義の1つ目の問題点が出てきている。つまり、自殺権や愚行権(麻薬など)を認めているのである。これは安楽死を認めているかどうかという問題に直結している。しかし、これらは未来の自分自身の自由を奪っているためという反論ができる。本書では、詳細に触れられてはいなかったが、これについては議論の余地があり、おそらく自由の補償範囲の決め方が課題となるのだろう。その他にも、子供についてはどう考えればいいのだろうか。子供を自由にしていると、危険で仕方ないと考えるのが自然である。リバタリアニズムの立場では、子供の自由は制限するのが正解である。これを本書では以下のように説明している。

 

子供がまだ『自由を持っていない』と考えるからである。(『正義の教室』より)

 

つまり、子供の選択は自由ではないと考えるのである。しかしこれに対しては、いつから子供になるのかという課題が存在しており、未だにこれといった定説はないそうだ。

いずれにせよ、自由主義の最大の問題点は格差の拡大と弱者の排除である。強いものが勝ち、弱いものは負けるのだ。そして愚かな人は自殺権や愚行権を行使して堕落していくのである。

 

自由主義が行き着く先。

『バカな人間は死ねばいい』(『正義の教室』より)

 

あくまでも個人の自由を尊重すれば、動物的な弱肉強食の世界が実現するのである。果たしてこれは正義なのだろうか。

 

このようにして、ポジティブな輝きをもった言葉である「自由」であっても、様々な負の側面を持っているのである。私は、この動物的なリバタリアニズムはとても分かりやすいが、あまり人間らしくないと思う。では人間らしさとはなんだろう。パスカルの言葉を借りるわけではないが、やはり人間は考えてなんぼではないだろうか。この時点で人間の傲慢な部分が出てきてしまっているのかもしれないが、所詮人類なんてそんな生き物なのではないだろうか。なによりリバタリアニズムのようなシンプルな考え方は、面白くない。答えがなかったとしても、正義とはなにか、どうすれば世の中はよくなるのか、と考え続けることが人間らしい生き方だと思う。「自由」という言葉でそれを片付けて、思考停止してはいけないのだ。