daikosh's blog

1日1アウトプット

仏教の悟りとは。ー梵我一如ー

 

最近、仏教の悟りについて理解を深めることができた。そこで、このブログで私が理解したことをまとめたいと思う。まずは、仏教の大きな流れを説明することから初めたいと思う。そのために、またまた飲茶氏の本を使わせていただく。『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』である。この本は主に仏教と中国の思想家についてまとめてある。今回は仏教の部分だけを利用させてもらおうと思う。『正義の教室』のときと同様、何日かに分けて説明していきたいと思う。

 

事の起こりはインドである。紀元前何十世紀という頃、人間は自然に対して畏敬の念を抱いていた。そんな中、現在のインドにアーリア人(現イラン人)が侵攻してきた。このとき、アーリア人は非常に頭が切れており、武力行使で制圧しただけではなく、インドに住んでいた先住民(ドラヴィダ人)を奴隷とするためにある宗教を導入したのである。彼らは自らをバラモン(祭司)と名乗り、自然をコントロールしている神と唯一コミュニケーションすることができるという設定を作って先住民を支配したのである。おそらく、マジックやイリュージョンのようなことをしてみせたのであろう。いずれにせよ、彼らの作戦は大成功し、見事にカースト制度バラモンを頂点とし、貴族、平民、奴隷の順とした四段階の人種差別階層)が成立する。これをバラモン教と呼ぶ。バラモン教は、後のヒンドゥー教や仏教にも大きな影響を与えている。輪廻転生やカルマ(業)などの考えはバラモン教からきているのだ。このような社会では、奴隷が忙しく汗水たらして労働させられているのに対し、バラモン達はゆとりのある生活を営んでいた。ゆとりと言っても映画もゲームもない時代であるため、多かれ少なかれ暇になるのだ。暇になると人間は何をするのか。そう、哲学し始めるのだ。この流れは西洋哲学の起こりであるギリシャ哲学と同じである。ちなみに、英語のschool(学校)はギリシャ語のskhole(余暇、ひま)が語源である。このことからも分かるように、考えることや学ぶことは最高の贅沢だと言えるだろう。

さて、そんな中登場したのがバラモンの一人であるヤージュニャヴァルキヤである。彼は「梵我一如」の考えを提唱し、ウパニシャッド哲学の根幹をつくった。実はこれが悟りの始まりであり、終わりでもある。では「梵我一如」とはどういう意味なのだろうか。まず「梵(ブラフマン)」とはこの世界を成り立たせている原理のことであり、「我(アートマン)」とは自我のことである。これらが「一如」、すなわち同じであると言っているのである。そして、この梵我一如を知った人は究極の心理に到達し、あらゆる苦悩から開放されるのである。急にオカルト感が出てきて、何の話だと戸惑う人もいるかも知れない。しかし、実はこれは現代の最新の科学が解き明かす世界に非常に近いのである。この話はこのシリーズの最後にとっておきたいと思う。

少し言い方を変えてみよう。「梵」は「認識されるもの」を指す。そして、「我」は「認識するもの」である。この宇宙(梵)は形は変わるかもしれないが未来永劫不滅しない。そして自我(我)も不滅なのである。それはなぜか。なぜなら「認識するもの」を認識することはできないからである。実はこれが輪廻転生の根拠になっている。つまり、肉体的な身体は死んだとしても、精神的な魂は不滅であるということになる。加えてヤージュニャヴァルキヤは、我は「〜に非ず(〜でない)」としか説明することができないという。どういうことかと言うと、我は「認識するもの」であるため、「認識されるもの」では表現できないということである。つまり、私(我)は日本人だと言った時点で、日本人は認識されているもの(梵)である。従って、「私はアメリカ人でない」という具合にしか説明できないと言っているのだ。そして、この「梵」と「我」が同一である(どちらも不滅である)ことを体感することで苦悩から開放されると彼は説くのである。

ここで、映画館で映画を見ている光景を思い浮かべてほしい。この世の中の認識されるもの(梵)が映画であり、認識するもの(我)が観客であるとすると、どんなに映画にのめり込んだとしても、実際の観客(我)は害されることはないのである。 いくら映画の中で人を殺しても、観客を殺すことはできないということである。現実世界に置き換えると、どんなに苦しいことがあったとしても実際に苦しんでいるのは映画の中の主人公であって、観客である自我ではないのだから、気にすることはないということである。これを知ることで苦悩からの開放されると彼は言ったのである。

 

それ以降、ウパニシャッド哲学の「梵我一如」の考え方は一大ブームを起こし、バラモンたちは悟りの境地に到達しようと皆努力し始めた。では彼らは何をしたのか。「本当に悟っているのであれば、どんな苦しいことをしたとしても平気でいられるようね?」という論理で苦行を始めたのである。さきほどの映画館の話に置き換えると「どうせ観ているのは映画なんだから、どんな怖い映画を観たとしても現実の世界じゃないからうろたえないよね?」といった具合である。このようにして、バラモンの中で苦行という名のやせ我慢バトルが繰り広げられていくのである。

しかしそんな中、何年も苦行を続けたのにも関わらず悟りの境地に達することができずに疑問を抱いていた男がいた。それが仏教の創始者、釈迦である!

 

 

(明日に続く)