daikosh's blog

1日1アウトプット

仏教の悟りとは。ー日本の仏教ー

 

さて、前回は龍樹を中心とした大乗仏教について話したが、その後のインドでは、仏教はヒンドゥー教に飲み込まれてしまう。しかし、仏教は東へと移動し、中国を通って日本に到来するのであった。『最強の哲学入門 東洋の哲人たち』には中国で花開いた東洋哲学である孔子儒教を代表とした諸子百家の話や仏教の教えに非常に近い老荘思想などもあり、とても興味深いのだがまたの機会にしたいと思う。また、仏教は中国を通る中で、儒教道教などの思想が混入したという事実があるということも書いておこう。 

さて、日本に仏教が伝来したのは6世紀頃とされている。時は飛鳥時代。仏教を政治に取り入れようとしていた仏教推進派の蘇我氏とそれに反対していた保守派の物部氏が争い、蘇我氏が勝利した。結果仏教は日本に受け入れられ、後に国教と言われるほどのものとなる。また聖徳太子は仏教の哲学をよく理解しており、日本の仏教布教に大きく貢献したと言われている。彼が作った十七条憲法にも仏教を敬うことが書かれてある。その後、仏教はどんどん力を持つようになり、奈良時代には今もなお東大寺にある「奈良の大仏盧舎那仏像)」を造像するほどになった。7世紀に入ってから、遣唐使として空海最澄が命をかけて中国に留学する。その頃、中国では中期密教が流行っていたおり、彼らはそれを日本に持って帰ってきたとされている。中期密教は修行中心で、儀礼や呪術的な要素を取り入れることで信者を獲得していった。しかし、この頃から仏教の哲学的な要素が少しぼやけ、釈迦の悟り(涅槃)から少しずつ遠ざかっていくのであった。時は流れ、鎌倉時代。日本の仏教は新しい教団組織を作った大衆向けの改革派と釈迦の教えに原点回帰しようとする保守派に別れるのである。改革派を代表とする僧が浄土宗を開いた法然浄土真宗を開いた親鸞であり、保守派を代表とする僧は臨済宗を開いた栄西曹洞宗を開いた道元である。彼らの考えを簡単に紹介しておこう。

まず改革派の法然について。法然はひたすら念仏を唱えればよいという専修念仏という考えを打ち出した。「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀様に帰依します(おまかせします)。」という意味である。では、なぜそれが悟りにつながるのだろうか。実は阿弥陀とは大乗仏教のキャラクターであり、人類で最後に悟りたいという架空の僧なのである。阿弥陀は言う。

「私を慕ってくれたら極楽浄土に生まれ変わらせ、そこで悟らせてあげよう。」

つまり「浄土」という「涅槃(釈迦の悟り)」への中間地点を作ることで、遠くなっていた悟りの世界に行きやすくしたのである。 彼の弟子だった親鸞はさらに磨く。彼は一度念仏という考えで、念仏を唱えるのは一度でいい、いやむしろ唱えなくても全員が浄土にいけると言ったのだ。なんと大胆な男なのだろうか。しかしこれにはしっかりとした根拠がある。他力本願という言葉をご存知だろうか。「そもそもこの世の中は無為自然、すなわち映画のように勝手に過ぎていくのだから、他力にまかせればよい。」「物事は「起こす」のではなく「起こる」のだ。」というような考えが根拠となっているのだ。さらに親鸞は悪人往生ということも言った。

「善人なおもて往生す。いわんや悪人をや」(親鸞

善人ですら極楽浄土に行けるのだから、悪人が行けるのは当然であると言ったのだ。ここで言う善人とは「自力」で生きている人のことである。それに対し、悪人は「他力」になりやすいと考えたのだ。しかしこの思想は、悪いことをしても最後に念仏を唱えたらOKと誤解する大衆が続出させてしまったのだ。しかしこれは明らかに間違っている。唱えたらOKと思っている時点で「自力」で生きている善人、すなわち自分が正しいと思うことをしてしまっているのだ。

一方、保守派の栄西公案というナゾナゾを使って悟りに導くという手法を用いた。あの有名なトンチの一休さん臨済宗の僧である。ナゾナゾには2つの目的がある。1つ目は「どのような問題も思考によってのみ解決できる」という考えを捨てさせることであり、2つ目は「自分のその思考こそが自分自身である」という誤解を解くことである。とにかく、「思考」というものを他者として観る訓練を徹底したのであった。同じく保守派の道元はひたすら座禅をして悟りを目指す只管打坐という手法を用いた。ひたすら思考(雑念)をスルーすることにより、真理を体感させようとしたのである。

 

以上のように、悟りを体感するための様々な手法が生まれた。このことからも、東洋哲学は方便であるということがお分かりいただけたのではないだろうか。とにかく結果が重要なのであり、理屈はその次なのである。

そして時は流れて江戸時代。徳川幕府は布教活動や新宗派設立を禁止する代わりに、全国民がどこかの寺に所属する(檀家)ことを義務付けたのだ。この寺請制度は、戸籍管理の委託が目的でもあった。この頃から、仏教は政治的な力も失い、哲学的にも弱くなり、葬式仏教と言われるようになったのである。

 

(明日に続く)